しかし、あの時トイレに行っておいてよかった。

 行ってなかったらもらしてたかも。

 いやいや、トイレなんかに行ってしまったからこうなってしまっただけに、どっちがよかったのかなんて矛盾する。

 この複雑な心境で気が遠くなりそうになってる時、目の前のゴリラ、いや、上級生が口を開いた。

「お前、ハルと同じクラスなのか?」

 ハル──。

 キョトンとしているとじれったそうにもう一度訊いて来た。

「近江晴人、さっきあんたが引っ張っていった人物だ」

 近江君の名前。

 晴人(はるひと)だからハル。

 この人は近江君の事を愛称で呼んでいる。

 母音が続くオウミという発音よりも、ハルの方が断然言い易い。

 ハルという響きはこんな状況であってもなぜだか私の耳には心地良いものを感じた。

 私はコクリと頷いた。

「あんた、名前はなんていうんだ?」
「遠山千咲都」

 どこから声がでたのだろうと思うくらい、か細く小さく搾り出された。

「チサトちゃんか。あんたハルと仲がいいのか?」

 軽々しくチサトちゃんって呼ばれてしまって、びっくりしたのもあるが、私は咄嗟に首を横に思いっきり振った。

「そんなに否定しなくてもいいじゃないか。それとも俺が怖いのか。参ったな。俺は二年一組の出渕ってんだ。出渕祥真(でぶちしょうま)」

「出渕先輩……」

 先ほど近江君を脅していたが、私と話す時は少し軟化している。

「あのさ、ちょっと頼まれてくれないか」

「えっ?」

「あんたのクラスに笹山さんっていう女の子がいるだろ」

「えっ、希莉のこと?」

「おっ、もしかして友達かい?」

 また頷いた。

「それなら話は早い。これを渡してくれないかな」

 出渕先輩は肩に掛けていたカバンから封筒を出した。

 それを私に突き出して、受け取れという。

 私は圧倒されて、押し付けられるままそれを手にしてしまった。

「あ、あの」

「何も心配することない。それを渡してくれたらわかるから」

「ちょっと待って下さい。希莉はこういうことされるのが嫌いで、その、こ、困ります」

「おいおい、あんたも俺の頼みを聞いてくれないのか。どいつもコイツも頑固な奴ばかりだ」

 舌打ちまで聞こえて、まさに不機嫌になっていた。

「もしかして、さっき近江君に言っていたのはこの事なんですか」

「ああ、そうだ。アイツならやってくれると思ったんだ。それなのに生意気になりやがって、許せねぇな。この落とし前は今度つけてやる」

 この人は何かあれば近江君を利用しようとしているに違いない。

 このままでは、近江君はずっと目を付けられてしまう。

 どこかで断ち切らないと負の連鎖はずっと続く。

 私の頭の中では、近江君を魔の手から遠ざけるにはどうすればいいのか、ぐるぐると考えが舞っていた。

 渡された手紙を見つめていると、自分がすべきぐっとする気持ちが込みあがってくる。

 独りよがりにその気持ちに舞い上がり、私は決心した。

「あの、わかりました。この手紙、希莉に渡します。だから、近江君にこれ以上付きまとうのは止めてくれますか」

「付きまとう? はぁ?」

 聞き捨てならなかった時に反応する呆れた声だった。

 思わず身が縮まる。

 それでも後には引けない思いで腹から声を出した。