ギュッと抱き締められて、飛びそうだった意識が再びはっきりする。これ、死神じゃない。とっても温かい。姉さん?……いや、たぶん違う。
 黒い影は、まだ崩れていないフロアから手を伸ばし、私を抱き抱えたようだった。私の両腕は相手の首に回り、抱擁する格好になっている。はっきりとは見えないけど、後ろ髪が私の鼻孔を擽る。太い首、大きな肩……男の人だ。こんな時なのに、気まずくて、何も言えず、動くこともできなかった。でも、何故だろう?少し懐かしい感じがした。
 影は、私を抱き締めたまま少し屈み、砦の屋上が瓦解していくのを遣り過ごした。振動も収まり、埃塵が失せるのにはまだかかりそうだけど、崩れた所から光が差し込む。改めて綺麗な金色の後ろ髪が見えた。背、高いな。そんなことを考えている間に、まだ原型を保っている中央階段を、男は私の両膝も抱えるようにして降り……って、これ、お姫様抱っこじゃん!
 ……気を失ってないことを伝える機会を完全に逸しちゃった。
 そんな動揺がまさか伝わってしまったのか、
「……もう自分の足で歩けるか?それとも、まだ腰が抜けているままか?」
頭の後ろ側から、落ち着いた低い声が聞こえる。
「こ、腰なんか抜けてないよッ!」
ドキッとして、狸寝入りしてるのも忘れて、相手の顔を覗いて、つい強く言い返しちゃった。凄く綺麗で、碧い、そして優しい瞳をした大人の男の人。私は自分で顔が赤く熱くなるのを感じた。ついつい顔を逸らす。いや、狸寝入りがバレてて、それでね!
 なんか、一人であたふたしている自分が滑稽で、そんな状況に心地悪さを感じて、改めて逸らした顔を向ける。たぶん、三十代半ばぐらいだろうか。無精髭面なんだけど、精悍で、不潔だとか、だらしないだとか、そんなことは感じもしなかった。

 ──それより、顔が近い!

 今の状況、お姫様抱っこされている自分に、更に顔が赤くなるのが分かった。な、なんだ、これ?
 階段を下まで降りると、その人は優しく私を解放した。なんだか、もう少しそのままでいたかったって思う私がいた。
「……私が起きてたの、知ってたの?」
私って、見ず知らずの人に惹かれるほど、軽い女じゃないよ!これ以上、変なことを考えないように、自分の思考を遮るためにその人を睨むようにして聞いたんだ。
 並んで立つと、見上げる格好になる。そんな私の視線から逃げるように、その人は瞳を逸らした。
「……なんとなく、な。」
擦れ違う視線。口数は少ない。それが、少し切なくて。でも、応えてくれたことがやっぱり嬉しくて。そんな自分自身に混乱して、言葉にならない言葉が唇を掠めていく。
 そんな時、その静寂を破るように、聞き慣れた声が城内を反響した。
「……マチルダさまぁ……。」
間がもたなかったから少しホッとして、そして、視線を巡らす。
「姉さんたちだ!あっちも無事だったんだ。」
声の出元は少し遠く。まだすぐには来ない。
「……さぁ、行け。」
「えっ!?あ、はい。」
その言葉は、この時間の終焉を意味している。それは、分かった。だから……
「名前を、名前を教えてください。その……助けてもらったから。」
「……私は故あって名も、故郷も、全てを捨てた身だ。」
温かみのまるでない、低い声。魂が震えた気がした。これ以上、話しかけることなんて、できる訳がなかった。
「……仲間が待っているのだろう?早く行って、無事な姿を見せることが、今、すべきことだと思うが。」
「あ、は、はい。」
さっきのは気のせいなのかな?最初に出逢ったのと同じ、温かい声、優しい瞳。よかった。
「あの、本当にありがとうございます。」
最後に一つだけ。
「私は、貴方と会ったことがありますか?……なんだか、初めて会ったような気がしなくて。」
「……あらゆるものが、"理"の中で円環を成す。巡り巡る中で、私とお前を繋ぐものがあるのだろう。」
「え、あ、あの……。」
突然、"理"って言葉を聞いて、頭の中をこの数年間が駆け巡った。上手く言葉にならないんだけど、でも、
「……あの、私にはよく分からないんです。でも、私は、その"理"というのが許せないんです。

"理"って、なんなんですか?

私が赤き竜に心臓を奪われたのも、

戦い続けなくちゃいけないのも、

サクヤ姉さんが殺されたのも、

全て"理"のせいなんですか?

……私が貴女と出逢ったのも"理"なんですか?」
 私は、その人の瞳をじっと見つめて、ただ見つめて、自分の気持ちをぶつけた。すると、不意に涙が込み上げてきて、幼い少女がするかのように、その人の胸に飛び込んで、泣きながら、両の拳で厚い胸板を叩いた。自分が自分じゃないみたいだった。いろんな思いが、堰を切ったかのように溢れ出す。……この人は関係ない。何も悪くない。ただ、"理"のことを知っているふうだっただけだ。でも、分からないんだけど、この人になら、気持ちをぶつけてもいい気がした。そんな人、姉さんしかいなかったはずなのに。その人は、私の肩をそっと抱いてくれた。