明治に入って早数年。
江戸幕府が終わりを告げ、この新しい世の中に変わったのは、まだ夏生が物心つく前のことであった。
将軍家に忠誠を尽くしてきた幕臣達は一掃され、明治維新に貢献した者達を中心に貴族階級が与えられた。
この家の旦那様もその一人だと聞いている。
この家には両親の代から仕えていたが、父親は夏生が7歳の時、母親は10歳の時に亡くなった。
親族もいない自分が生きていく為には、取りあえずこの屋敷で働くしかない。
だが夏生には夢があった。
ここ数年で日本に取り入れられた欧米の文化。
何もかもが新しい、今まで日本になかったものばかり。
欧米の言葉にも興味がある。
まだ欧米人に会ったことはないけれど、そんな仕事ができたら―――
「だからなんだってんだ」
夏生は自嘲するように呟いた。
華族さまならまだしも、その華族さまに仕える身である自分がそんな仕事に就けるはずがない。
そんな自分の生まれに憤りを感じていると、廊下の向こう側から声が聞こえた。
「夏生」
「奥方様!」
顔を上げるとそこには夏生の仕える主人の姿があった。
「また遊びにきたの?」
「いえ、朝食の準備が出来たので…」
「あの人は?」
『あの人』とは彼女の夫、旦那様のことである。
「それが、今日も仕事があると…」
「そう…いつものことだもの。」
奥様は悲しそうに笑うと夏生に向き直った。
「じゃあ今日も部屋で食べようかしら」
「わかりました。お部屋に運ぶように…」
「貴方が持ってきてくださる?」
「俺…いや、僕がですか?」
「そうよ。新しい本を購入したの。読みにいらっしゃらない?」
本…その言葉に夏生の胸はときめいた。
よく夏生は奥様の部屋にあるたくさんの本を読んで、知識を得ていた。
先程口にした欧米の言葉も奥様から教えてもらったものだ。
だが使用人の立場上、のこのことついて行くのはまずい。
「でも旦那様に…」
「大丈夫よ。あの人には『いつものことよ』って私から言っておくから。それでいいでしょう?」
いつも自分が奥様の部屋の本を読み漁っていることは、この屋敷で知らないものはいない。
それは旦那様も含めてだ。
少しだけなら…と自分の悪い癖に内心呆れながらも、夏生は元気よく答えた。
「はい!すぐにお食事を持ってきますね!」
「ふふ…待ってるわ」
奥様はにっこり笑うと、自分の部屋に戻って行った。
その笑顔はまるで弟に向けるような優しい笑みだった。