夏生たちが函館へ向けて出発した夜。
炎天寺家の館では雅秋がひとり、書斎にいた。
何かの書類にサインを走らせ、インを押す。
その行為を機械的に進めていた雅秋は扉のノックを聞いて、その手を止めた。
「入ってもいいか?」
「ああ」
短く雅秋が短く返事をすると、部屋の中に入ってきたのは長身の男。
「久しぶりだな冬堂。昔と変わっていないな」
「ああ。たがお前はずいぶんしおらしくなったんじゃないか?」
冬堂と呼ばれた男は冗談めかしたように言うと、話を続けた。
「今日はいないのか?お前の愛しの奥方様は」
「馬鹿言うなよ、誰が愛しだよ!そんなこと言ってみろ、”あいつ“に怒られちまうだろ!」
「やっと素が戻ってきたようだな、咲太郎」
はっとしたように口を塞ぐ雅秋…改め、咲太郎。
「咲太郎はやめてくれよ。もうとうに捨てた名だ」
はぁ、とため息をついて咲太郎は椅子にもたれかかった。
「俺には使命がある。“あいつ”と約束したんだ」
「はは、生真面目な性格まで似たな」
冬堂は笑うと、
「それで?奥方様はお前に愛想を尽かして出て行ったのかい?」
「それが…あながち間違いでもないんだよ」
真面目に語る咲太郎に、冗談のつもりで茶化した冬堂はあんぐりと口を開けた。
「お前…いったい何をしたんだ!?」
咲太郎の肩に手を置いてガクガクと揺すりはじめた冬堂。
「痛い痛い痛い痛い痛い…!おいっ!何すんだよ!」
必死に抵抗した咲太郎に冬堂は言った。
「お前は昔からそうだった。チャラチャラと女の子にちょっかい出しては振られ、長続きしない…」
「まてまて!いつの話をしているんだよ!俺は変わったんだ。小春一筋の真面目な男に…」
「じゃあなんで小春ちゃんいないんだ?」
「…旅行にいったんだ」
「旅行?」
冬堂が聞き返す。
「そう、なんだかよく分からないけど函館に行くそうだ」
「函館!?ものすごく遠いだろう」
「まぁ…小春が考えていることは分かるよ」
遠い目をして咲太郎は言った。
「函館は昔戦争が終わった地だからなぁ…」
「じゃあ小春ちゃんは…」
何かを察したように冬堂は咲太郎を見る。
「きっとそうだと思う。だから俺も止めなかったんだ。ただ…」
「ただ?」
「小春、一人だけ使用人を連れて行ったんだ」
「男?女?」
冬堂が尋ねた。
しばしの沈黙が流れる。
そして咲太郎が叫んだ。
「それが若い十代の男なんだよ!やばくない?これやばくない?」
「いや…心配しすぎだろう」
「でもさぁ、どっかの伯爵様は使用人と駆け落ちしたとか、どっかの男爵様は使用人を妻にして、もといた奥方様を実家に返したとか…最近多いんだ!だから俺も…」
「お前の頭の方がやばいな」
叫ぶ咲太郎を前にため息をつく冬堂だった。