いよいよ出立の日。
必要な物をできるかぎり詰め込んでトランクを閉じた夏生は、緊張した面持ちで屋根裏部屋の階段を降りていった。
そこに待ち構えたように立っている一人の使用人。
芳子だった。
「芳子さん」
夏生が声をかけると、芳子は何も言わずに小さな包みを無造作に押しつける。
「これは…?」
「せめてもの餞別」
包みを開けるとおにぎりなど二人分の軽食が入っていた。
「餞別って…僕はここに戻ってきますけど?」
「いいから素直に受け取りなさい。奥様によろしく伝えて」
「了解」
芳子との会話で夏生の心は軽くなる。
函館は遠い。
ここへ戻ってくるのも当分先になるだろう。
足早に去っていく夏生を見つめて芳子は呟いた。
「頑張って」

夏生が玄関を出たとき、奥様はもう来ていた。
「遅くなって申し訳ありません」
夏生が謝ると奥様は笑顔で
「問題ないわ。大丈夫よ」
と答えた。
傍に止めてある馬車から御者が降りてくる。
御者の男は奥様と夏生に一礼した。
「どうぞお乗りください」
「分かったわ。さぁ夏生乗りましょう」
「は、はい…」
夏生は生まれてこの方馬車というものに乗ったことがなかった。
移動手段なんて徒歩しか考えられない身分だった。
馬車に向かって歩き出す奥様の後を追いかける。
先に奥様が乗り込んだ。
「早くいらっしゃい夏生」
奥様が優しく微笑む。
夏生は息をのんで馬車の入り口に足をかけた。
それは一瞬のことのように過ぎ去り、夏生は柔らかいクッションのような椅子に座る。
「馬車をだしてちょうだい」
夏生が乗り込んだと同時に奥様は御者に声をかけ、ゆっくりと馬車は動き出した。
だんだんと加速していく馬車。
あっという間に過ぎ去っていく景色に夏生はただただ感動していた。
「どう?外の世界は」
「はい、全てが新しいことばっかりで…とても楽しいです!」
子どものように目をキラキラ輝かせて夏生は言った。
「私も結婚して間もない頃は初めて見るものばっかりでキョロキョロしてばかりいたわ。」
「奥様はこの辺りの方ではないのですか?」
ふと疑問に思った夏生は尋ねた。
「ええ。ここよりずっと西の方――京の生まれなの」
「京、ですか…では明治維新のときは…」
「京にいたわ。維新だけじゃない。幕府の権力がどんどん衰えていくのも目の当たりにした」
どこか悲しそうに呟く奥様にチクリと心が痛んだ。
「申し訳ありません…あまり思い出したくない思い出でしたよね…」
「そんなことないわ。むしろ好都合」
「え?」
好都合とはいったい何のことだろうか。
首をかしげる夏生に奥様はニヤリと笑って答えた。
「私が函館に行こうと思った理由知りたくない?」