「帰ろう」
「うん」
離れたおでこを秋風が撫でて、あっという間に渉の温もりは消えてしまう。けれど代わりに繋いだ手に力を込めて、返される力に安心と、彼の優しさを感じて。
先週と同じように、今度は一本だけ凍ったペットボトルのお茶を買うと、タオルに包んで瞼の上に乗せる。前に、渉から預かっていたタオルの存在を思い出してバッグを漁った。
「渉、これ先週の」
「嗚呼、ごめん。ありがとう、……もしかして洗ってくれた?」
「うん。香りがするでしょう」
「うん。そっか、これが村崎家の香りかあ」
変な事を言う渉に笑って、今度こそペットボトルを瞼に当てた。もう既にホームに上がって、電車待ちをしている。丁度五分前に行かれてしまったから、次に電車が来るまで三十分ほどあった。
「紬、また送るよ」
「……うん、ありがとう」
「どういたしまして」
暗い視界の中から、隣に座る渉の声がする。先週、果たされないと思って、けれど渉が果たしに来てくれた約束を、また交わす。今日は大丈夫、そういう安心が私の中にあって、けれど先週も電車を待っている間はそうだったことを思い出し苦い気持ちになった。
今日は大丈夫。腹を割って話せたのだから。これ以上何かあるなんてないし、あるとは思いたくないけれど。
あるとしたら、渉がまた記憶を思い出した時くらいだろう。
ホームは地上より高い位置にあるせいか、少し風が寒く感じられてきた。ペットボトルを持っている手が、この季節にして早くも悴みそうな感じを覚える。九月中旬、ほんの数日前までは温かくて夏のようだったのに、急に寒くなったからか身体がついていかない。
制服だと、細かい温度調節ができないのが困る。それでも『昔』よりは便利で温かい世の中になったな、と考えていると、渉が隣でうたを紡いだ。
「秋立ちて、幾日もあらねば、この寝ぬる、」
「────朝明の風は、手元寒しも」
────秋になって何日もたっていないのに、この寝ての朝の風は手元に寒く感じられます
朝じゃないけどね、と付け加えた渉も、どうやら同じことを考えていたらしい。
引き継いだ下の句、朝ではなくとも渉がこのうたを引っ張ってきた気持ちは理解できる。秋風、を題材にした和歌は少なくはないのだが、如何せん恋の歌がメインだ。
「嗚呼でも、萩の花、咲きたる野辺に、は?」
「あーそれもあるね。ひぐらし、さっきちらっと声聞こえてたし。……萩の花、見てないけど」
「ひぐらし聞こえた? 私気にしてなかったなあ」
────萩の花 咲きたる野辺に ひぐらしの 鳴くなるなへに 秋の風吹く


