諦めたように、疲れたように笑う彼に、泣きたくなりながらその名を呼ぶ。くるり、と身体を向けてきたのをいいことにぎゅっと抱き締めると、おしん、と密やかに声が落とされる。ゆるゆると回された腕に力が込められていって、呼ばれた名前に心臓を鷲掴みにされた気になった。
「────ふみ、」
胸が、痛い。
「たかはるさまっ」
口にするのは、違う時代の彼の名前。
お互いにとって、辛い別れをした相手の名。
心が捩じ切れそうに痛い。悲痛な声をするくせに、泣くことはない彼が一番。
ぎりぎりと締め付けられていく腕が、その辛さを表しているようで。黙ってその痛みに耐えながら、私も彼を抱き締め返す。
突然呼ばれた名前は、きっと彼が思い出してしまったせい。私にとっての高原様は、彼にとっての文だ。しかも文の方がより酷い別れをしているのだから、これくらい甘んじて受け入れるべきだと、思った。
押し付けられる体温は、指先と違ってとても温かくて。嗚呼生きている、けれど彼は高原様ではなくて渉であって。でももう生きていてくれればそれでいい、誰であったとしても彼が彼であるなら────と。
「ねえ、紬」
そっと、『私』の名前を口にした彼が、私をゆっくりと解放した。
「なあに、渉」
だから私も、渉の名を口にする。他の誰でもない、この時代の彼の名を。
「一つだけ、確認してもいい?」
慎重に紡ぎ出された言葉に、こくり、頷く。訊かれて困ることは、ない。彼に視線を向けると、ぶつかった視線にどちらともなく笑みを零した。
伸ばした手を掴まれて、先程よりも格段に高くなっている体温にほっと息を吐く。気付いた渉が「紬が温めてくれたから」と言うから、照れた私は彼から視線を逸らした。今更ながらだが、言葉にされると恥ずかしいものがある。
もう一度紬、と名前を呼ばれて、真剣な声にぱっと視線を元に戻した。そうだ、話をしている最中だった。
「紬は、兄貴とは……徹とは、何もないんだよね?」
「うん、ないよ。徹さんにこの場で電話をかけてもいい」
「かけないよ。念のため、の確認だから」
それか、と思いながら冷静に否定する。渉の言った通り、ただの確認なのは分かっていた。ここに来てまで、お互いを疑う意味なんてない。
呼び直したその真意を掴んで、少しだけ顔を顰めた私の頬を渉がさらっと撫でた。上目遣いに見上げると、そんな顔しないでよ、とこちらも哀しげな表情で言ってくる。それが何となく嫌で、片手でその頬を抓ってやると痛い、と視線で訴えられた。
「渉も、そんな顔しないで」
過去のことは、今振り返ったところでその出来事が変えられるわけではない。


