あしたのうた



どれくらい、黙っていたのか。掠れた声を発した紬が俺から離れて、ひた、と視線を合わせてきた。その瞳を素直に見返して、後に続く言葉を待つ。少し安心したように笑った紬が、渉、と俺の名前を呼んだ。


「思い出して、欲しいの」


うん、と相槌。俺も思い出したい、という言葉は飲み込んで。


「確かに私は額田王で、渉は大海人皇子で、徹さんは中大兄皇子で。でも、違うの。だから思い出して欲しいの」


また、頷く。必死に伝えようとしてくる気持ちは、ちゃんと伝わっている。何かが違うということも、ちゃんと、分かっている。


だから、その為に、信じる為に、訊かせてほしい。


「……兄貴と、会ってたって、聞いた」


それがなかったら、こんなことにはなっていなかった。後輩は悪くない、悪かったのは、タイミングと、俺と。そう言ったら多分、紬も悪かったと言うのだろうけれど。


「それは、……確かに、会った、よ。ただ、確かめたくて。徹さんの、『記憶』を」


本当に、ないのかを。


ごくりと唾を飲んだのは無意識。緊張が伝わったのか、紬が俺の手を握ってくる。夜風に晒された手は冷たくなってしまっていて、それでも少ない温もりを求めて、しっかりと繋いだ。


「徹さんは、何も憶えてないよ、やっぱり」

「……そ、っか」


よかったのか、悪かったのか、俺にはまだよく分からないけれど。『記憶』を共有するのが二人しかいない特別感が崩れてしまうのは怖かったから、これでよかったと、思って。


ごめん、ともう一度謝ると、だから謝らないでよ、とまた否定。あのね、渉、と言葉を重ねる紬の声が、また滲んでいるのが分かった。


「よ、かった……っ」


つ、と頰を滑って落ちていく涙を、差し込む月明かりが照らし出す。次から次へと零れ落ちる涙をそのままに、暗がりの中で微かに笑う紬があまりにも綺麗で、思わず声を失った。


「もう、帰ってこないんじゃないかと、思って、っ」


────そっか。そうだね、ごめん、紬。


今まで何度もなんども繰り返してきた別れの記憶が、なくなることはない。あんな別れ方をした後、急に消えた俺を心配するのは、当たり前だということに漸く気付く。いくつもの辛すぎる別れを思い返して、今回を思い出して、紬を追い詰めてしまったことが酷く情けない。


繋いでいない方の手で、そっと紬の涙を掬う。次々と落ちていく雫を、零すことのないように。泣かないで、という言葉を伝えるのはまた違う気がして、その涙を甘んじて受け入れた。


「徹、っさんに聞いたとき、渉が、し、んっ……」

「ごめん、紬。ごめんね」


繋がった腕を引っ張って、胸の中に閉じ込めた。素直に胸の中に収まった紬が、か細い泣き声を上げる。


最後まで言わせる前に遮ったのは、自分の為でもあり、彼女の為でもあり。言葉にしたら本当にそうなってしまう気がして、そうなってしまうのが怖くて、強制的に言葉を切らせた。