「ねえ、渉」
本当は、俺だって、
「私が好きなのは、渉だよ」
────俺、だって。
「つむぎ」
発した言葉は、自分の思ったよりも小さいものだった。けれど、紬が動きを止めたのが分かる。かさり、音がして、紬の足音が近づいてくる。
「俺だって、帰り、たい」
分からなくても。どれだけ、兄貴と顔を合わせるのが怖かろうと。
これだけ悩むのは、兄貴のことが嫌いではなくて寧ろ大切だからだということくらい、とっくの昔に気付いていた。
「わた、る」
「……紬」
月明かりすらも入ってこない、暗い橋の下。確かめるように名前を呼ぶ紬を導くために、大きめに声を出すと反響して消える。それでもその呼びかけを頼りに歩いて来た紬が、ぴたり、と足を止めるのが、足音で分かった。
渉、と紡がれた名前に彼女の名前を呼び返して、すくっと立ち上がる。暗がりに慣れた目で紬の前まで歩くと、その背にそっと腕を回した。
「────ごめん、紬」
ゆるゆると、紬の腕が俺の背中に回される。緩く首を左右に振って俺の言葉を否定すると、違うの、とくぐもった声が聞こえる。それに答えずに黙ったままでいると、肩がじんわりと濡れていくのが分かった。
泣き虫だね、と零すと、渉のせいだよ、と返ってくる。ごめん、と謝ると、今度は否定されない。ぎゅうぎゅうと腕を締め付けてくる紬に、何も言えなくなって閉口した。
「……聞いてたの」
こくり、頷くと、そっか、と一言。紬もそれ以上何も言わず、ただお互いの呼吸に合わせて静かに息をするだけの空間。
けれど、やはり同じというわけにはいかない。
肩を濡らす紬の涙が、現実を強く突きつけてくる。一度別れてしまった事実はなかったことにはできない、そう出来る程簡単な問題でもない。やり直すことはできるのかもしれないが、それは、自分が。俺自身が、受け入れられそうになかった。
好きだと、言っていた。好きなのは、俺だと。けれどどうにも、知識としての『中大兄皇子』が邪魔をする。実際に兄貴がそういう人ではないと、彼女がいるのに簡単に別れて弟の彼女と付き合う人ではないと分かっていても、知識は消えない。こうであるという概念は無くならない。
思い出すのが、一番手っ取り早いのだろう。紬から話を聞いたとしても、それを信じられるかどうかはまた別の問題だ、と紬の独り言を聞いて思う。紬を疑うつもりはないし、おいおい思い出すだろうということを考えても嘘を吐くことはないだろうが、心情的に。素直に信じられるかどうかが、今の俺には分からない。
「……ねえ」


