苦しいくらいに、大好きなんだ。愛してるでも足りないくらいに、隣にいるのが当たり前だって思っていた。
「何で兄貴なの……、」
もっと他の人じゃなくて、どうして兄貴なの。どうして兄貴が中大兄皇子なの。
「どうして俺が大海人皇子、でっ」
紬が、額田王で。
「こんなことなら、」
記憶なんてない状態で、紬と出逢えればよかった。
そうすればきっと、何にも囚われることなく、ただ純粋に村崎紬というひとを好きになることができたのではないか、と。
そんなもの、あり得ないことだけれど。
紬と出逢えたこと自体を後悔しているわけではないからこその想い。いっそ嫌いになれてしまったら、後悔することができたら、どれほど楽だろうかと思う。それでも後悔なんてしていなくて、寧ろ出逢わせてくれたことに関しては感謝している。
好きよりも、愛してるよりも、もっと上。お互いにとって、ではなく、俺にとって、になってしまったけれど、そうだとしても。
嫌いになんて、なれるわけがなかった。
気付けばもう辺りは真っ暗だった。ちらほらと見える街灯と空に光る月だけが光源の地上で、路地裏に入ってくる光はほとんどない。その暗さが逆に俺を落ち着けてくれて、息が整ったところで一つ大きな深呼吸をした。
紬はどうしただろうか、ちゃんと家に帰れただろうか。自分のことは棚に上げて、心配するのは紬のこと。兄貴が手を回していればいいのだけれど、紬と連絡は取れただろうか。
父親も母親も、兄貴も俺のことを心配していることくらいは分かっている。だからスマホを見たくない。帰って来いと言われるに決まっている、ちゃんと話そうと言われるに決まっている。
今の俺はまだ、兄貴と話をする気にはなれていない。だから家に帰りたくはないし、兄貴と連絡をつけたくもない。スマホを開けば連絡が入っていることは明白で、父親や母親から来ていたら反応しないわけにはいかないから、そして兄貴はそれを狙っているから、俺は。
「……どうしよう」
金曜日の、夜。明日は休みだから、一日くらい帰らなくても問題はない、だろうか。
兄貴とは一度顔を合わせているから、警察に連絡はしていないと踏む。そもそも兄貴と会って逃げたのだから、自分が何かしたと思っているだろう。それは合っているようで間違っているのだが、『過去』を知らない兄貴からしたらどうってことはない。
一番の問題は、制服だということ。下手に出歩くと補導される可能性がある上、公演だと人目につくからそれも危ないだろう。と、なると。
ふと思い当たるところがあって、俺はのろのろと立ち上がった。
河原に、行こう。


