ぶんと兄貴の腕を振り払うと、拘束の解けた身体でひたすらに走った。
目的地も何もない。家に兄貴がいると考えると、家にも帰りたくない。とはいっても逃げ込む場所なんて思いつくわけもなく、知らない道をただ駆けた。
もういっそ、誰も知らないところでまた別の人間として生きたかった。渉も清吾も聡太郎も高治も、まだ思い出せていない時代の彼、を全て捨てて、ゼロとして生きていきたかった。
他の人は当たり前に憶えていない『過去』を、どうして俺と紬だけは持っているのだろう。
こんなことになるなら、記憶なんて過去なんて未来なんて。なくなってしまえばいい、忘れてしまいたい、憶えてなくていい、俺だって他の、『ふつう』のひとみたいに、『ふつう』の人生を歩んでみたかった。
この記憶がある限り、絶対に叶わない望み。そして、今までは考えたことなんてなかった望み。
どうして俺はこんなこと考えているんだろう。紬に逢えたことを、後悔しているわけではないのに。後悔しているわけではないから、余計になかったことになってしまった方が考えなくて済む、と思ったのか。
どちらにせよ、俺は結局紬との『未来』を捨てきれていないのだ。
だって、初めて。初めて話のできる存在ができて、初めてこんなにも人を想うことを教えてもらって、初めて、『記憶』を、『過去』を『未来』を、────『あした』、を。
信じられると、思わせてくれた。
────『けど、ねえ、信じて』
そう言った紬の声が、頭の中で響いている。
────『だから、信じようよ、渉』
信じたいと思ったよ、信じて、いたよ。俺なりに、紬を通すことで、信じられなかった記憶も過去も未来も、信じて、いた。
今は、どうすればいいのか。
「分かんない、よ、ねえっ」
言ったって、誰も答えてくれるわけがないのは知っていた。それでも、一度壊れた言葉の決壊は、そう簡単に直ってはくれないことも知っていた。
「俺は、どうすればいいの」
路地裏、誰も入らないような隙間に身体を押し込めて、その場にずるずると座り込む。どれだけの間走っていたのか、息は上がっていてまともな呼吸なんて出来ていない。それでも唇の端から零れていく言葉たちを止めることはできなくて、ただ流れ落ちていくのを荒い息の中聞くことしかできない。
誰も知らない、俺の本心。俺ですら気付いていなかったような、俺の、願い。
「もっともっと、ずっと、」
一緒にいられると思って、一緒にいるつもりでいて。
「今度こそ、もっと長生きするって、決めた、のに」
今まで生きることができなかった分、二人一緒の時間を大切にして、おじいちゃんおばあちゃんになるまで一緒に。
「好き、だよ、好きなんだよ……っ」


