あしたのうた



「……わか、った」


落とされた声が小さいのは、本当は嫌だと思っているからだと勘違いすることくらい許されるだろうか。


俺帰るよ、と伝票を持って立ち上がる。止めようとした紬を笑って制して、今度は逆ね、と一言。ぐっと唇を噛み締めて涙を堪えた様子の彼女が、精一杯というようにこくり、頷いた。


そんな顔されたら、期待する。もしかしたら、なんて思ってしまう。だからそんな顔しないで、期待なんて持たせないで。もう一度があるように言っているのは俺の方だけど、無理なら無理と、容赦なく切って。


お願いだから。


────ダメならダメだと、諦めさせてよ、ねえ。


「さよなら、」


俺の、ずっとずっと、ずっと昔からの想いびと。


ぱたり、決壊した紬の涙腺を直視する前に、逃げるように店を出た。駅に着くと方向なんて気にせずに来た電車に乗り込む。ドアを背にもたれかかると、しゃがみ込みたい気持ちを堪えてそっと瞳を閉じた。


苦しい。終わらせたのは自分なのに、別れようと言ったのは自分なのに。苦しくて辛くて泣きたくて、でもそうしたら何かが終わってしまうような気がして。何かを知らないままに終わらせてしまうのは怖いから、ただひたすらに我慢して。


好きだよ。好きよりも、愛してるよりも、もっと上。お互いにとっての『当たり前』、そう思っていたけれど。


紬には────額田王、には。


「違う、んだよね……」


自分の呟いた言葉に、傷付いた。


大海人皇子も、額田王と別れた後に奥さんをもらっている。それも、中大兄皇子の娘と。


でも俺には、大海人皇子だった時の記憶はない。


俺が大海人皇子だったことは、名前からしても、紬の反応からしても、直感というか本能というか、そういう第六感からしても、間違えようのない事実。けれど俺はまだその頃の記憶を思い出していないから、あくまで知っているのは『知識』としての彼等だけ。


早く思い出せたらいいのに、と思う反面、思い出したくない、とも思ってしまう。はっきりと、紬と結ばれることのない現実を突きつけられる気がして。否、歴史からしたら、それで正解なのだけれど。


今の俺は、正解なんて求めていない。


ただ、紬と一緒の『あした』を望んでいるだけなのに────これでは、いつまで経っても堂々巡りだ。


車内アナウンスが聞き慣れた地名を伝えて、ふと顔を上げる。いくつか駅を通り過ぎているはずが、気付かなかった。表示されているのは、兄の仕事先の学校近くの駅。降りるかどうか悩んだ末、迷って一度身体を外に出した瞬間、警笛が鳴ってドアが閉められた。


あ、と漏れた声が電車の走行音に掻き消される。電車がホームを出て行くのを見送って、ぽつんと一人その場に立ち尽くす。咄嗟に降りてしまったけれど、今兄貴に会いたくはなかった。