けれど。
「言って、くれないの」
言って欲しかった。本当は、頼って欲しかった。
「いつもそうだ、」
紬は、彼女は。いつもいつも、彼女の方が最初から記憶を持つ側だと、そうやって全て飲み込んで我慢して、俺の記憶が戻るまで根気強く待って。今まではそれでよかったのかもしれない、俺だって同じことをしていたのだからそれに関してはなにも言えない。
だが、今回は違う。
いつもと違う流れ。初めて、額田王と大海人皇子、そして中大兄皇子を意識した。うたはずっと意識していても、名前まではっきりと示してきているのは初。だから、そう言うイレギュラーくらい話してくれたって、怒ることはないのに。記憶だってちゃんといつかは戻ると思うのに。それまで『知識』として持っているだけだって、ダメなわけではないのに。
「約束、したのに」
我慢はしないと。言葉にする、と。不安も悩みも不満も全部聴く、と。
言えない、言わない紬の気持ちも分かるが故の苦しさ。言って欲しくても、やっぱり言ってもらえないことは分かっている。けれど、でも、溜め込んで欲しくはなくて、嗚呼もうぐちゃぐちゃすぎて、自分でもどうすればいいのか分からない。
なにも、言えないと思った。名前すら、なんて呼べばいいのか分からなくて口にできない。
温くなったカフェラテを飲むと、冷たくなったカップを両手で包む。指先が冷たくて、緩くてもまだ暖かいそれは先程とまではいかなくとも安心できる温度。少し残った液体をくるくると回して遊びながら、彼女の言葉を待つ。
そんな顔をされたら、帰れるわけがない。泣いている紬を振り切って逃げるには、元に戻れなくなる覚悟が足りなかった。
この期に及んで、尚戻りたいと願う自分がいる。
額田王だと知る前。出逢ってすぐの頃。あの夏祭りの後くらいの、なにも考えずにただ話しているだけで楽しかった頃。
こんなにも、想っているのに。
兄貴には彼女がいるのに、どうするんだろうか。昔と違って一夫多妻は認められていないよ、と。心の中で思うそれが、八つ当たりだということにはとうの昔に気付いている。
届かない想いがこんなにも辛いものだなんて、知らなかった。結ばれないと分かって願う未来がこんなにも苦しいものだなんて、知らなかった。繋がっていたいと望む明日が、こんなにも、悲しいものだなんて、ちっとも。
けれど、同時に知った楽しさや嬉しさや温かさを思い出すと、どうしても捨てられない。
どんどん思い出す『むかし』と、一緒に居られる嬉しさ、手のひらの温度、笑い合う時間、移ろっていく季節も、暗くなっていく空も、全部ぜんぶが楽しくて、嬉しくて。ただ隣にいる、たったそれだけのことが、信じられないくらいに温かいと感じて。


