あしたのうた



「ま、って」

「どうして」

「違うの、」

「なにが」


違わなくなんてないでしょう? 紬が額田王なのだとしたら、俺は紛れもなく大海人皇子。────そして、兄貴は中大兄皇子。


最終的に結ばれるのは、額田王と大海人皇子ではない。大海人皇子ではなく、兄の中大兄皇子。そして大海人皇子は兄の子供を奥さんにもらう。付き合っていた時期はあれど、最期まで一緒にいることはなかったふたり。


俺が知っている、『知識』。歴史に詳しい人なら誰もが知っている程度の、史実。あくまで昔々の出来事でしかない、本当にあったのかも分からない遠い昔の出来事。


そう、この歴史が本当なのかどうかは分からない。けれど、うたが残っている。むらさきの、あかねさす、きみまつと。うたが、大海人皇子と額田王は別れて、中大兄皇子と結ばれ愛し合っていたことを示している。


気持ちの整理が、つかない。


ずっと一緒だと、約束をした。時代をまたいで、何度別れても何度だって一緒になると、そう決めて、二人で約束を、して。約束、したのに。


「離して、紬」

「……嫌だ、よ」

「紬。離して」


ねえ、紬。


そう落としても、紬は俺の腕を離さない。紬の根気と他の客の視線に負け、大人しく一度席に座り直す。それでも逃げられたくないからなのか、腕を掴んだままの紬にもうなにも言わなかった。


紬が引き止める意味がわからない。だって、兄貴と会っていたんでしょう。紬は額田王で、兄貴は中大兄皇子なんでしょう。だったらもう、既に。


紬、ともう一度呼びかけると、いやいやをするように彼女が首を振った。その瞬間雫が散って、俯いていて表情の見えない紬が泣いていることを知る。泣きたいのは俺の方だ、と心の中で呟きながら、何も言えなくなって口を閉じた。


ぱたぱたとテーブルに落ちる紬の涙が、速度を増していくのをただただ眺める。俺は何も言わない、紬も何も言わない。気まずい沈黙が流れる中で、店内にかかる有線放送と、他の客の囁くような話し声だけが聞こえてくる。俺を掴んだままの紬の手にそっと反対の手を添えると、力が抜けた紬の腕がずるずるとテーブルの上に落ちた。


「……行か、ないで」


ぽつり、と落とされた言の葉。泣いたせいか、掠れた声でそう訴える紬に、無言で居住まいを正す。それが分かったのか腕を引っ込める紬に、それ以上なにかを言う様子は見当たらない。


待って、行かないで、と言うくせに、説明はしてくれないと。言えないことなのかもしれない、俺はまだ『思い出して』いないから、額田王と大海人皇子のことは、『知識』でしか知らないから、紬が言わない気持ちも、分からないではない。