あしたのうた



「……私、戻りますね。先輩ごめんなさい」

「何言ってんの、白石さんは悪くないから、本当に」


そう、悪いのは、俺。


得体の知れない恐怖があった。何か大きなことが変わってしまいそうな、そんな予感。そしてそれが『記憶』に関係しているようなことの気がして、余計に不安を煽っている。


帰っていく白石さんの背を見送って、とん、と壁に背を預けた。力が抜けそうになるのを必死で堪え、ふと吐息を吐く。大丈夫、自分に言い聞かせると、閉じていた瞳をそっと開いた。


「渉ー?」

「何疾風」

「なんかあったのかよ?」

「何でもないよ」


何でも、ない。何でもないはずだ。まだ何とも言えない、ちゃんと紬に、そして兄貴に訊かなければ。


心配しているのは、浮気なんかじゃない。


そんな小さいこと、と言える程に、浮気よりも遥かに大きな、問題で。今までの繰り返しが、全て嘘になってしまうかのような。何度もなんども繰り返してきた、今までの『過去』全てが、紛い物だったかのような。


もしかして、本当に。


嫌な予感は当たる。特に『むかし』のことに関しては。それは予感というよりは予知と言える程。


嫌だ、と思った。そんな予感いらない、だって何度もなんども約束を交わしたのに。あの約束すら、なくなってしまうのだろうか。あの約束があるから、紬の存在があるから、漸く『あした』を信じられるかもしれないと、紬を通して信じられると、思ったのに。


「渉?」

「大丈夫だって」


笑う。笑え。なんでもないという表情をしろ。『昔』からそんなこと当たり前で日常茶飯事だっただろう、できるはずだから、ねえ。


普通に、本当に何事もないように笑って、部誌の話、と自然に嘘を吐く。嗚呼それな、と納得した疾風に頷くと、机の中から文庫本を取り出して読み始める。それを始めたら自然と疾風はいなくなるのを知っている、そこまで騙せればその後は流してしまえばいい。


授業は残り二時間。先に紬に訊くか、兄貴にあたるか。それとももう少し様子を見るのか。


今日は金曜日だ、紬との約束まではまだ少しある。一昨日会った時は、そんなことないと思っていたのに。後輩からこうして会っていることを聞いただけでここまで動揺するなんて、思っても見なかった。


そもそも、本人かどうかはわからないとしても。ここまで、会っていた相手が自分の兄貴だと知って焦る彼氏はいないだろう。それでも、もし、兄貴が。そう考えるとどうしたって不安になるし、酷く苦しかった。


どうすれば、いいのだろう。