あしたのうた



記憶を取り戻すことが、初めて怖い、と思った。


思ってしまった自分に後悔する。思い出したくはない、ということではなくて、ただ単に俺と紬ではなく兄貴との関係が変わってしまうかもしれないことが怖い、だから思い出したくない、というわけではないけれど今の俺はそう思ったのか。


分からない。


紬より、彼女より大切なことなんてない、それは言い切れる。だがだからといって他に大切なものがないわけじゃないというのを、初めて実感した気がした。


疾風は確かに大事だ。それは実感ではなく、自覚。身に染みて感じたのは初めてのことで、その気持ちをどう扱うべきなのか持て余す。が、疾風の言葉を思い出して、辛うじて捨てることだけは避けた。


排他的なんかではない証拠。ちゃんと、他の人も大切に思っている証拠。


それだけに、怖い。だから怖い。


兄貴が思い出すことはないわけで、兄貴がこのことを『思い出す』ことはないのだから、今までどおりに接すればいいのに。そうできないと思ってしまうのは、もしかしたらと思っている人物同士の関係が読めないからだった。


一週間前に、紬に問われた三つの和歌を思い出す。三つの和歌を詠った、三人の関係に思いを馳せる。


────あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る


────紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも


────君待つと 我が恋ひをれば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く


ねえ、紬。一体何を思い出したの。


ふつう、に考えれば、紬は最初から俺たちの関係全てを憶えていたはずだった。今俺が悩んでいることの真偽も全て。でもそう言った様子はなかった、何度も確認するようにうたを交わしたことは、覚えている。


だとしたら。


紬も、憶えていなかったのだろうか。片方が全てを憶えていて、出逢ってからもう片方が思い出していく、という法則は、実際は違っていたのだろうか。


恐らく、これが一番『最初』の記憶なのだろう。


もう、違っているなんてことは、考えられない。合っていてほしくないとしても、『記憶』に関する直感が外れないことを、俺は『知って』いる。


一体いつ思い出すのだろう。この先俺は兄貴とどう接すればいいのだろう。


本当に、俺と紬は、愛し合っていい仲なのだろうか。


分からない。分からない。分からないことが苦しくて、分かったとしても多分辛いことを考えると、どうにもできなくて。


つむぎ、と名前を呼んで、力の抜けていた手を握る。握り返してくれた温もりを信じて、俺はそっと唇を噛みしめた。