あしたのうた



今の俺ができることを、できる範囲で。


「帰りたくなったら言ってね、紬」

「……ん。ありがとう、渉」


あ。


今日初めて名前を呼ばれた、と思った。今日というより、先週ぶり、一週間ぶりに。


俺と紬は、恐らく必要以上に名前を呼び合っている。少なくとも俺は自覚しているし、紬だって自覚しているはずだ。それなのにこの一週間、連絡が取れなかったから当たり前なのかもしれないが、全然名前を呼ばれていなかったことに今更気付いた。


こうして名前を呼ばれると、安心する。『過去』の記憶は、正直今の自分を惑わせてくるから。


だから、お互いの名前を口にすることで、『いま』の自分を、相手を確認していた。言い聞かせるように、惑わされることのないように。


単純に、名前を呼ばれるのが好きだから、名前を呼ぶのが好きだから、というのも含まれてはいるけれど。


さあ、と一際強い風が吹いて、身を縮めた紬にそっと寄り添った。無言でくっついてくる紬に少しだけ笑って、俺も投げ出した足を折りたたむ。


それにしても。


兄貴は一体何をしたのだろう。紬ではない頃の彼女に、はたまた渉ではない頃の俺に、か。考えても仕方のないことは知りつつ、考えてしまうものは仕方ないと開き直って思考を巡らせる。


────ひとつ、だけ。


それは、予想というよりは、勘。恐らく紬も気付いているだろう、一つの仮説がある。一昨日、途中で考えることをやめた、それ。


俺と紬の、名前だ。


妹尾渉と、村崎紬。妹尾と、村崎。『妹を』と『紫草』。


それが指し示すものは、一つしかない。だとするなら、俺に、『妹を』に兄がいる理由も、説明はつく。


それが恐らく正解だということは、察しがついてた。


言葉にしないのは、正直信じたくないからというのがひとつ、俺がまだ思い出していないからというのがひとつ、紬が言ってこなかったから、というのも恐らくひとつ。


俺と紬が出逢って初めて交わした、うた。それはもしかしたら偶然かもしれないけれど、俺たちの中で偶然はほとんど必然と同義になる。


俺は、もしかしたら、『彼』の生まれ変わりなのではないだろうか。紬は、もしかしたら、『彼女』の生まれ変わりなのではないだろうか。そうだとするなら、兄貴は、『あの人』の生まれ変わりではないのだろうか。


もし、そうだとしたら。俺は兄貴とどう接すればいいのか分からなくなってしまいそうだった。


口にすることは認めることのような気がした。だから言わなかった、のかもしれない。認めたら接し方が分からなくなる、変わってしまうことが何よりも怖かったから、俺は。


そうだという確たる証拠がないとは言っても、違うという確たる証拠だってないのだ。