「ねえ、綺麗よ。」
彼女は屈託のない笑顔で窓の外を指差した。
午前4時。
空は白み始めていた。きっとあと30分もすれば茜色に染まるだろう。そして数時間後には真っ青に。


「空って、不思議ね。だって、赤くなったり、青くなったりするんだもの。同じ空だなんて、未だに信じられない。」
彼女はふふ、と笑って額を窓にくっつけた。俺もそれを真似て窓に頭をもたれたが、勢いが強すぎてゴツンと音がした。それを見て彼女はさらに笑った。


綺麗だ。


俺は彼女の暖かなココア色の髪に手を伸ばした。が、その手は彼女をすり抜けた。


「こーら。女子の髪に不躾に触るんじゃないわよ。それは彼女にしてあげなさい。」
「…女子って年でもないだろ…」
「あんたってやつは…ほんっとにかわいくないわねっ!」
「それに、別に問題ない。」
「なにがよ。」


「君が彼女になったら問題ない…し、」
「………。」


俺は平静を装ってふい、と窓の外を見る振りをしながら彼女の反応を伺った。頭が熱い。
彼女は少し目を見開いてから、普通の、いつもの何も考えていないときと同じ顔に戻った。でも、その目の奥では静かに何かを考えている。


どれくらいたっただろうか。
窓の外を流れていた海が木々によって遮られた時、彼女は決心したように目をつむり、開けた。


「ねえ、私、楽しかったわよ。」
「…。」
「真っ暗で、なーんにも見えなかったけど。」
「…。」
「でも、波の音が聞こえたわ。砂を踏む音も。風も吹いてたわね。」
「…。」
「綺麗だったわ。見えなくたって、とても。だから、」


「次はっ!!」
俺はガバッと立ち上がって手を広げた。


「こんなでっかい青い海、ちゃんと、見せるから!」



彼女は目を見開いた後、小さく笑った。
「意外と一途なところ、嫌いじゃないわ。ありがとう。」
彼女の冷たい手が、髪に触れた気がした。分かっていた。俺も彼女も、もう触れ合えないことも、会うことがないことも。それでも透けた白い手は、いつまでも俺の頭を撫で続ける。そのままで彼女は優しく言った。


「たくさん失敗しなさい。たくさん傷つきなさい。たくさん、人を愛しなさい。私のことは、思い出にして。私は今日でもう十分。」


穏やかな笑顔。俺が好きになった笑顔。そっと目をつむる。



「好きよ、樹」



優しい声が耳を通り抜けていく。冷たい風が頬をなでた気がした。目を開けると彼女はもういなくなっていた。聞こえるのは電車の揺れる音。それは本当に一瞬で、まるで夢を見ていたかのようだ。でも、確かに彼女はそこにいた。それを証明できるもの記憶だけだけど。


「俺も…………」


忘れるなんてできやしない。暑い夏がくるたび、雨で空が曇るたび、白む空をみるたび、必ず彼女を思い出す。


今日もあの日の彼女が笑ってる。