新学期初日、帰りの電車から降りた私を駅員さんが呼び止めた。

「あんたに渡すよう頼まれたものがあるんだ。ちょっと待ってて」

そう言って差し出されたのは1通の手紙。
薄く桜色をしたそれは男性らしく、それでも綺麗な字で書かれたものだった。

「楽しかった。またね」

たったそれだけ。
宛名も差出人も書かれていない。
だけど直感した。
これは彼が書いたものだ。

安堵と寂しさが同時にこみ上げてきた。
もらった手紙をくしゃくしゃにならないように、それでも力強く握りしめた。

駅員さんにお礼を言って、私は家に帰った。
透明なファイルに手紙をしまって保管した。

そしてそんな日から季節は移り変わり、もう暑さが厳しい初夏の終わりごろ。
始発の駅にはいつもの人の隣に別の駅員さんがいた。
どこか硬い動きと表情からして恐らく新人さんだろう。

「お客様」

定期を通して改札を通して出ようとした私に新人さんが話しかけてきた。

「…久しぶり」

顔はよく見えていなかった。
でも『久しぶり』ってことはきっと…

「君、なんでここに…?」

少しだけ上げた頭からいつもの眠たそうな顔が覗く。
やっぱり彼だ。

「またねって言ったはずだろ。見てないの?」

「あ…」

あれは気休めや挨拶代わりなんてものではなく、彼の意思だったんだ。

「少し、話がしたい。もうすぐ上がるから待ってて…くれる?」

こくりと頷くと、私は待合室へと向かった。
十分少々だろうか。
私服姿の彼が来た。

「研修期間でここまでかかったんだ」

彼は私の一つ上、つまり卒業していた。
だから電車に乗ることがなかった。

「就職の決め手は君なんだけどね」

「え?」

「俺はあの時間がすげぇ居心地よかったんだ。君の隣が、なんか楽だった」

そんなの私も同じ。
でもそんなことは言わない。
言ったらこらえきれなくなりそうだったから。

「たぶん、俺は君との時間が…いや、君がか。好きだったんだ」

この感情が馬鹿げていることは知っている。
何も知らない相手を好きだなんて。
名前すら知らないのに、何を言っているんだ。

「…何も知らないくせに」

「少なくとも君よりは知ってるよ。石橋立夏さん」

なんで…。

「そんな驚いた顔しなくても…。今君が高校三年生ってことも知ってる」

眠たそうな顔が少しだけ悪戯っぽく笑う。
何も知らないのは私だけだったんだ。

「教科書、毎日見てたからね」

知ってて何も言わなかったんだ。
いや、違う。
彼は言ってくれた。
知ってたから、手紙を残してくれた。

「私、君のこと何も知らない。君は私のこと知ってたのに、私だけ何も知らない」

もう堪えられなかった。

「そんなの不公平だよ。もっと、君の事教えて」

吐き捨てるように、睨みつけるように、彼を見据えた。

「ぶっさいくな顔してんなー。知りたけりゃ追いかけてこいよ。俺は追うのも嫌いじゃないけど、追われるのも好きなんだよ」

とりあえず1発デコピン。

「上等だよ。君よりも詳しくなってやるから」

私たちの、私たちだけの時間がまた動き始めた。
結末なんてもう私は決めていた。
知っていたの。
私は彼が好きだってこと。
認めるのはまだずっと先だけどね。