深く吐いた息の音が、今度ははっきりと聞こえて。
彼は、倒れたパイプ椅子を引き起こす。
そのまま跪いて、散らばった資料を一枚一枚拾い上げていく。
伏せた額の上で、前髪が揺れているのが見えた。
「嫌だったならごめんね、謝るよ。」
散らばった紙の山が、みるみる彼の手に収まっていく。
嫌とかじゃ、なくて。
気づいてしまった、だけ。
まだ暗い部屋の中、温もりに目を覚ませば、彼の厚い胸の中だった。
少し動けば、ギュッと無意識に私を引き寄せる腕の力を。
幸せだと感じた、自分の恋心に。
“ヤッてしまった”
忽ち、打ちのめされるような後悔が湧き上がった。
岩田さんにとって、“ヤッちゃった”人になるのだけは、嫌だった。
なかったことにするしかないと。重たくないフリをするには、それしかないと。
気怠い身体を引きずるようにして、部屋を逃げ出した。
四角を綺麗に整えて、彼は立ち上がった。
分厚い紙の束を、片手で差し出す。
昨日生身に感じた彼の香りが舞って、胸が締まった。
『…あ、ありがと』
「過ちなんて言うなよ、傷つくんだけど。」
彼が捨てるだけになった紙を、手放さないから。
私も情けない期待を、まだ手放せない。
力を込めて、紙の束を引くと。
彼はやっと、手を放した。
『…酔ってましたから、仕方ないですよ。』
「澪は酔ってたよね。俺は全然、酔ってなかった。」
“澪”
また呼ばれた、名前に。
彼の革靴の先が、滲んで見えそうになって。
「酔いに任せた、フリをしただけだよ。」
強く強く、唇を噛んだ。
『…なんでもう、そんな期待させることばっか言うんですか。
忘れるから、大丈夫だってば…』
「忘れさせない。」
『忘れさせてよ!』
頭に、柔らかい温もりが降ってきた。
「忘れさせない。」
本当は、ずっと。
この低く響く声も、大きな手の平も。
心苦しくなるほどに、欲しいと願ってた。
「そんな簡単に、忘れるなんて言うなよ。」
負けてしまう。
手の平から通じる、彼の温かさに。
溶けた心は、瞳から溢れ出す。
『なんなのもう…岩田さん、私のこと好きなの?』
「好きだよ。」
きっと、今私グチャグチャだ。
こんな顔で見上げたくなんてないのに、反射的に顎が引き上がった。
『なんて?』
「だから、好きだって。」
なんで泣くんだよ、と。
小さく笑って、私の頬をなぞる。
『か、簡単に好きなんて言わないでよ、しかもこんなところで!』
「だから、朝までいてって言ったじゃん。」
鼓動が跳ねた音が、聞こえた。
「話を聞かずに帰ったのは、澪の方だ。」