掴まれた右手首は、一瞬で熱を持った。


「何で、帰ったんだよ。」


覗きこむような仕草を避けるために、顔を背けた。
やだな。だから、二人きりになりたくなかったのに。



『…岩田さん、ここ次の会議が始まりま、』

「朝までいろって言ったじゃん。」


拗ねるような、口ぶり。
ロレックスのデイトナが覗く、骨っぽい手首。
似つかわしくない、細く長い指。

抵抗虚しく騒ぎ出しそうになる左胸を。
私はそれでも、必死で抑えつける。




『…私、大丈夫ですから。』

「は?」

『言いませんから、誰にも。』



薄茶色の前髪の下。
ソッと、眉が寄せられたのが見えた。



「…どういう意味?」

『勘違いしてませんから、大丈夫です。』

「勘違い?何のこと言ってんの?」

『それ貸して下さい、もうここ空けなきゃ。』


グッ、と。
掴まれた右手首に、力がこもった。


「人の話聞けよ。」

『だから、昨日の過ちは誰にも言いませんってば!』



振り払うように、右手首を振り上げたら。
よろけた腰がぶつかって、後ろのパイプ椅子は倒れた。
大きな音を、床に叩きつけて。
瀕死だった私のプライドを、粉々に床に叩きつけて。

抱えていた資料が、両腕から溢れてハラハラと舞い散っていく向こう側で。
岩田さんが、小さな溜息を吐いた気がした。




まずい。

だめだ。

ここで泣いたら、だめなのに_____






ほんの数時間前、眠る岩田さんの腕の中を抜け出して、逃げ帰った私は。

まだ薄暗い夜明けの空の下で、使い切った筈の涙を。


懲りもせずに、冷たく溢した。