「うおぅ」
 冷たさよりも驚きが優先し、ベンチから飛び起きて後ろを振り返ると、缶コーヒーを持った巫部が「してやったり」顔で立っていた。
「ビックリした?」
「ビックリしたに決まってるだろ。何の前触れもなく突然冷たさが襲ってくれば俺でなくても同じ反応すると思うぞ」
「あはは、いいリアクションだったわよ。これ、今日の報酬ね」
 そう言って持っていた缶コーヒーを俺に投げ、再び俺の横に腰を下ろし、暫くは二人でベンチに座りながらコーヒーをチビチビと飲んでいるのであった。いつもならマシンガントーク全開の巫部だが今日に限って嫌に大人しいのは気のせいであろうか。もしかして、さっきの事が原因なのか?
 夕陽が除々に傾き、西の空が茜色に染まる頃、それまで何かを考えていたかのように黙りこくっていた巫部がゆっくりと口を開いた。
「あんたはさ、大事なものを失くしちゃった事ってある?」
 真剣な表情で俺を見つめるも、いきなり何を言い出すんだ?
「私はあるの。とっても大事なもの。今ではどんなに願っても永遠に戻らないものよ」
「失くしたって、何を?」
 俺の言葉に巫部は少し俯き缶コーヒーを握っている両手に力を込めた。
「私ね。実は妹がいたのよ。でもね、子どもの時病気で死んじゃったの。小さい頃から病弱で、あんまり一緒に遊んだ記憶もないのよ。ずっと入院してて、お見舞いに行っても起き上がれなくてさ。で、ある時学校の帰りにお見舞いに行ったら妹はいなかった。突然いなくなっちゃったのよ」
 巫部は俯き加減で、
「それからの私は、元々引っ込み思案な性格と妹が居なくなっちゃったショックで塞ぎこんじゃって、それが原因でいじめられてたの。友達からも仲間はずれにされちゃってさ。遊ぶ時もずっと一人だったの。公園の隅にある砂場でいつも一人お城を作っているような子だったのよ」
 その時の光景が眼に浮かぶぜ、夕焼けの公園で一人砂場でお城を作る少女か。
「でね。ある時、『一人じゃつまんないでしょ? 一緒に遊ぼうよ』って言ってくれた子がいたの。すごく嬉しかったんだけどさ、私素直になれなくって、照れてたってのもあるんだけど、その子の事無視して帰っちゃったの。でも次の日もその子はいて、また声を掛けてきてくれたの。さすがにその日は帰らなかったけど、冷たくしちゃってたわ。本心はすごく嬉しいのに。『この子もそのうち私をいじめるかもしれない』そう思っちゃって、冷めた表情で接していた。だけどその子はそんな私を突き放すでもなく、毎日遊びに誘ってくれたの。すごく楽しかった。でも、笑顔は見せられないでいたの」
 巫部は瞳を閉じてゆっくり深呼吸し、再び口を開くが、それは少し悲しそうな表情だった。
「毎日毎日公園で一緒に遊んでたんだけど、変な心の壁を作ってその子にすら本心は出さないようにしていたの。ひねくれてるでしょ? だけど、その子は私と違っていつも笑顔だった。公園に行った時、先に遊んでいる子がいても私のところに来てくれて、私のおままごとにも、鬼ごっこにも嫌な顔せずに付き合ってくれたの。名前も歳もわからない子だったけど、とっても優しくて、私が他の子にいじめられるとすぐに飛んできて助けてくれたの」
 いきなり昔話を始めるが、それは楽しかった過去を懐かしんでいる様子ではなく、少し辛そうに俺に何かを告白するかのようだった。あまりの真剣な表情に巫部の顔を見つめながら言葉を発する事ができない。
「あれは三月の終わり位だった。私が二年生になる頃かな? いつもみたいにあの子と夕方まで遊んだのはいいんだけど、帰り際にさ、子猫がダンボールに入れられてるのを見つけたのよ。そりゃもう、可愛くて、抱きかかえて家に連れて帰ろうとしたんだけど、子猫が腕の中で暴れちゃってさ、逃げ出しちゃったの。急に飛び出すものだから、慌てて私もその猫を追って道路に飛び出しちゃったのね」
 巫部の声のトーンが少し下がる。
「車のクラクションに気づいた時にはもう目の前に車が迫ってて……私驚いちゃって体が動かなくなっちゃったの。ぼんやり車がせまり来るのを見てるしかできなかった。でもその時、「あぶない」って声が聞こえたんだけど、気が付いた時にはあの子が目の前で横になってたの。すごい血が出てて、子どもの私が見ても重傷だってわかるぐらいだった。でも、その子はさ、笑顔で「怪我はない?」って言うのよ。自分は大怪我しちゃったって言うのに。それから動かなくなっちゃって、あまりの血の多さに私も気を失っちゃってさ。次に目が覚めたのは病院のベッドの上だったの」
 さっきから胸のあたりが締め付けられる。このモヤモヤは一体なんなんだ? 
「私は怪我をしていなかった。気を失ったってことで、一日入院しただけだったの。だけど、あの子は……その病院に居なかったの。違う病院に運ばれたらしくて、看護師さんに聞いてもわからないって言うのよ。だけど、あんな大怪我で無事な訳ないのよ。多分、私がまだ小さかったから、大人はみんな教えてくれなかったと思うの。死んじゃったってことを……わっ、私のせいで……あの子は……」
 俯いていた巫部は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らし始めた。もう一つの世界を信じる少女。とんでもない奴だと思っていたが、今目の前にいるのは、そんな片鱗を見せず純粋に友人の死を自分のせいだと責め立てている。俺は巫部の背中に手を伸ばし、優しく撫でてやることしかできなかった。
 暫くは茜色の公園で巫部の嗚咽だけが響いたが、やがて落ち着きを取り戻したらしく、
「ごめんなさい。まさかあんたにこんな所を見せるなんてね。ごめん。って、なんだか私今日、謝ってばかりだね」
 いつもの巫部の様子では完全にない。目の前にいるのは、そう、今にも壊れそうな弱々しい心を持った少女だった。