女狐が笑う日は

「どうしたんですか！誰か・・・誰か・・・」

雪は無力にもそう言っていた。
皮肉めいた思考がようやく働きだしたのだった。
すると突然奥の襖がカラカラと音を立てて開いた。
雪はそのあまりにも軽い音に拍子抜けしてしまったが、その音の主を見て雪は自分の血の気が引いていくのが分かった。

・・・清水・・・君？

彼はいつもの彼からは想像出来ないほど恐ろしい、恨みの籠った表情をしていた。

「やはり帰ってきたのか。この女狐が。もう来るなと云ったはずだ。いいか。悪いことは言わない。貴様のいるべき処へ帰れ。」

寡黙な彼からは想像もつかないような恐ろしい声色だ。
よく見るとその大きな優しい手には似合わない冷たく無機質な刃物が握られていた。
その手は態度には似合わず細かく震えていた。

雪は泣きそうだった。
どこへ行っても狐は迫害されるの？
私は何処へ行けばいいの？
もう山に帰るなんて出来ない。
母さん・・。
私は一体どこで踏み外したのでしょうか。
すると暖かい手が不意に雪の肩に触れた。
雪は驚いてびくりと肩を揺らした。

「山・・中・？」
何時もの優しい声だ。
「母さんじゃ・・無い？」

雪には何のことかわからない。
見つめあったまま時間が流れていた。

＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿

山中雪・・・。
寡黙な少女はこちらを見つめている。
まったくもって何のことかわからない、というような表情かおをして。
その顔はかつての母親、香織を思い出させる。
「やめてッ信じてよッ」
「ああ、敬太ッ・・・お願い・・。」

そんな声が脳内に壊れたスピーカーのように繰り返し再生されていた。

彼女は本当にあの事を知らないのだろうか。

今の彼は疑心暗鬼になっていた。
あれから、彼の日常は崩れ去っていた。

＿＿＿＿＿＿＿＿敬太。起きなさい・・・・。

そんな声で幼い日の彼は目覚めた。
ふわりと香る卵の甘い匂い、ここは夢ではないと確信する。

向日葵の様な笑顔、さらりとした黒い髪、少し悪い目付き。
それが彼の母親、香織だった。

彼にはもう雪の姿なんて見えていない。
過去のフィルムを巻き返すように、走馬燈のように、彼の幸せだった頃の時代が視えていた。

＿＿＿＿ああ、ここから悲劇が始まったんだ。
彼は後悔していた。一時でもこの時を幸せだと思っていた自分を。この女を母だと思っていた自分を。静かな狂気が、ひしひしと近づいて来ていることを察せなかった自分を。

「敬太、早く起きなさい。」
香織は困ったような顔をして幼い敬太を優しい手つきで揺さぶっていた。
まるで揺り籠を揺らすように。
ようやく彼は目覚めた。
「母さん、御飯出来てる？」
無邪気な彼はそう答えた。このころの彼には、寡黙な彼特有の何かを抱えているような何かずしりとした雰囲気はなかった。

「行ってきまあす。」
彼はそう言って玄関を出た。使い古した埃臭いランドセルを背負ったその表情は晴天の日の朝の様な清々しい笑顔＿＿＿＿。
そんな少年を微笑みながら見送る母親。
この無垢な少年は、母親が大好きだった。

香織・・・。
この女性は彼の父親である男性に恋をした。
それは五月雨の降る日。

香織はぐしょ濡れのままこの屋敷にやってきた。
優美な艶のある黒髪は、雨に洗われた葡萄のように光り輝いていたのだった。
「あのーすみませっ・・・。」
門の前に佇む女を見かね、声をかけた男性は己の行動の後悔し、息を詰まらせた。
その女性の美しい髪の下から除く顔。その目付きがあまりにも悪かったからだ。