拓人の心は"草船"だ。

あっちこっちからくる大波に逆らわず、その場に赴く風に身を任せている。

だから、よく"何を求めてるのかがわからない"と友人に言われ、今まで交際してきた彼女にも、『…回りに合わす事も、大事だと思うよ』と誉め言葉の皮を被った表現を使ってくれていた。

要は『自分』というものが無いのだ。

よく"自分とはこういうものだ"と歌っている歌手がいて、拓人もそれを聴いた時には共感を得る。

…が、それも一瞬だけ。

2、3日後には元の"自分がない人間"に戻っているのだ。

自分がないから、自分のある相手に"心で"当たりやすくなるのだ、と考えるのは、弱い自分を隠す言い訳かも。



…だが、拓人は、そんな自分とはオサラバするつもりで、今アパートの前に立っている。

一人暮らししている由衣の、少し煤けたクリーム色の、小さなアパートは、初にお目にかかる。

が、拓人の目には、そのアパートが強固な要塞と化しているかのように映る。


今は就活の時期で、余計な事考えてる余裕はないかも知れない。

だからこそ!
就活で忙しいから…卒論で忙しいから…そうやってこれからもなんらかの逃げる理由を作ってしまう気がする。


この間、ゆっくり時間の流れている2人の、その空気がいいと思った。


だが、そろそろ一枚壁を乗り越えてみてもいいんじゃないか?

2人の関係を、少しだけ進ませてみてもいいんじゃないか?


キレイな理由のフィルターで、内に潜む汚い自分に幕を掛けて、草船はいかりを上げ、帆を張るように、アパートへ踏み出した。