彼女の目から零れ落ちる涙が、きつく握りしめるシーツを濡らしていく。
 でも俺にはどうする事も出来ない。いや、どうすればいいのか分からないんだ。
 なんて声を掛けていいのか思い付かないし、まして震える彼女の体を抱きしめるなんてわけにもいかない。

 静寂だけが広がる空間に、俺の心は唸りを上げて混乱している。
 ただそんな俺の目を見て彼女は続けた。そして最後に俺に向かって一つだけ願ったんだ。

「オシャレだとか、甘い物とか、そんな些細な事で言い争って、あの子の事を嫌いになれるわけがない。私が胸の中で抑え込んでさえいれば済むこと。そう、それで良かったはずなの。でもね、まさか好きになる人まで奪われるなんて――。いくら私が病気持ちだとしても、いつまでも子供じゃいられないのよ。私だって人並みに恋くらいしてみたい。それなのにあの子は、それまでも私から取り上げていく。ううん、それにも増して私から生きる気力まで奪い去っていこうとするのよ! …………でも、私には抗えない。だってそれでもあの子は私にとって、掛け替えの無い【友達】なんだからさ。だからお願い――」

 彼女は潤んだ瞳で俺を見つめて言った。

「あなたを諦める代わりに、一度だけでいいから。――キス、してくれないかな」

 一瞬その意味を俺は捉えられなかった。
 彼女が俺に何を求めたのか、まったく理解出来なかったんだ。
 そんな俺に対して彼女は軽く微笑みながら付け加える。でもその表情からは、今にも崩れ落ちそうな心の嘆きが感じられた。

「お願い、私を楽にさせて。私のワガママを聞いて。そうすれば私はあなたを忘れられる。それにあの子とあなたの未来を祝う事も出来る気がする。だからお願い。一度だけでいいから、ね。お願い」

「――無理だよ。俺には出来ない」

「良いじゃない、そんなに難しく考えないでよ。それに一年前に一度、あなたにはしてもらってるんだから。今更恥ずかしがる事でもないでしょ」

「いや、それは違うだろ。あの時は命を救う為に人工呼吸しただけなんだ。キスとは次元が違う」

「だから今回も私の心を救う人口呼吸だと思えばいいのよ」

「そ、それは屁理屈だよ。それに俺には」

「強がってはいるけど、もう限界なの。このままじゃ私の心は粉々に崩れてしまうの。だから、ね。お願い。一度でいいの。一度だけでいいから」

「ダメだよ。こんな事したら」

「意気地なし! この病室には私とあなたしかいないのよ。お互いに誰にも言わなければ問題ないんだから、それくらいの事でビクビクしないでよ。それに良いじゃない。あなたにしてみれば、バカな女一人とキス出来てラッキーだった。そう思えば済む事なのよ。だからお願い、私の想いにケジメをつけさせて――」

 君は彼女が俺の事を慕っていると知っていたんだね。だから俺一人で彼女に会いに行かないよう願ったんだ。
 こうなってしまう結末を予想出来たから。

 俺は弱い男だ。そう痛切に感じずにはいられない。
 でも彼女の気持ちにどう折り合いを付ければ、君に対しても収まりがつけられたんだろうか。
 ただ一つ言えるのは、俺にその答えを導き出すのは絶対に無理なんだよね。

 唇に残る罪悪感が俺の心をすり減らしていく。
 そして君への背信行為とも呼べる今回の裏切りが、更なる君への冒涜に繋がってしまうんだという事に、俺は少しも気付けなかった――。