俺は最後の気合を絞り出して懸命に走る。ただふと気がつくと、白い猫の姿は何処にも無かった。
 極度の疲労による錯覚でも見ていたんだろうか。確かに感じたはずのその存在に、俺はただ言葉を失った。まさかこのレース自体が夢なんてオチはないよな。ゴールがもう目の前だというのに、俺はそんな事を考えていたんだ。

 でもそんな俺を現実に引き戻してくれたのは、やっぱり【君】だったんだよね。スタンドの観衆が歓声を上げる中で、追い風に乗って君の声が俺に届いたんだ。

「頑張ってっ! もう少しだよ、頑張って!」ってね。

 確かに君の声だ。俺がそれを聞き間違えるわけがない。
 少し声が枯れている気がしたけど、でもやっぱり君は俺を全力で応援してくれていたんだ。

 けどそんな君の声援に混じって聞こえて来る歓声に俺は耳を疑った。
 君の声援を上塗りするほどに、俺に向けられて一際大きな声が上がったんだ。
 それも一人や二人じゃない。すごく大勢の声が俺に向かって掛けられている。俺の名前と共に、頑張れって強く励ます声が聞こえて来るんだ。

 俺はゴールを目の前にした状況にもかかわらず、軽率にもそんな歓声の沸き立つスタンドに目を向けた。
 するとそこに映ったのは、俺に向かって大声援を送る、陸上部員総出の姿だったんだ。

 先頭で応援するのはスタートの事故によって棄権したキャプテンの彼だった。
 そしてそんな彼を中心として大声援が巻き起こっている。彼が無理やり部員達を駆り立てて、俺に声援を送るよう仕向けたのか。ううん違う。部員一人一人の表情を見る限り、そこには純粋に俺を励ます気持ちだけが伝わって来るんだ。

 ゴールまでの数十メートルの間、俺はそんな大声援を背に受けて走った。言葉では表す事の出来ない嬉しさを噛みしめながら。
 そしてついに、1万メートルのゴールに到達したんだ。


 考えられないアクシデントが多発した、異常とも言える今回のレース。
 でもそんな過酷なレースが、俺にとって生涯忘れられない大きな宝物になったのも事実なんだよね。

 ゴールを終えた俺は、まだ歓声の止まないスタンドの部員達に向け笑顔を向けた。本当は手を大きく振って応えたかったんだけど、腕に力が入らなかったんだよね。
 でも陸上部のみんなは、俺のそんな疲れ切った姿に快く理解を示してくれた。頑張った俺に対して、淀みない拍手と温かい声援を投げ掛け続けてくれたんだ。

 俺はそんなみんなの姿に輝きを感じて目を細めた。
 まぶしくて堪らなかったんだよ。陸上部の日陰者として阻害されていた俺なんかの為に、心から声援を送ってくれたみんなの気持ちが嬉しくて、少し恥ずかしかったんだ。

「ありがとう、どうもありがとう――」

 俺は言葉にならない感謝の想いを心の中で大きく叫んだ。最後まで頑張り切れた感謝の気持ちをみんなに届けたかったから。
 でもその時の俺は大きな輝きに埋もれてしまった、最も大切なはずの光を不覚にも見失っていたんだ。

 あの大歓声を上げてくれたみんなの中に君もいたはず。そしてその中の誰よりも強い想いで俺を応援してくれていたはずなんだ。
 それなのに俺は現状に舞い上がり、一番感謝を伝えなければいけない君を見失ってしまった。

 どうしてなんだろう。感極まって溢れ出た涙のせいだとでも言うのか。でも落ち着いて考えれば有り得ない事なんだよね。大好きでこの上なく愛おしい君の存在を見つけられないなんてさ。

 それでもいち早くそんな心疚しい気持ちに気が付いて君を抱きしめられれば、未来はもっと素敵なものへと繋がっていったんだろうね。
 でも生まれて初めて味わった歓喜に俺の心は深く酔いしれてしまったんだ。

 それが掛け替えの無い君という存在を哀しませてしまうんだって事に、まったく気付づきもしないでね――。