明日へ馳せる思い出のカケラ

 皇居の外苑に来た目的は、そんな俺自身の初心を思い出したかっただけなのかも知れない。でも並走する君を見ていて、そんな事はどうでも良くなってしまった。
 だって君は内堀通り沿いを走る一周5キロほどのコースを、音を上げずに2周も走り切ってしまったんだから。

 少しでも暑さを避ける為に、朝の早い時間にスタートしたつもりだ。でも真夏の首都の暑さは想像を超えるほどに厳しい環境だったんだ。
 それなりのトレーニングに日々勤しんでいた俺ですら、むせ返るほどの暑さに途中で心が折れそうになったくらいだからね。だから初めは一周だけ走れれば上出来だと思っていたんだ。

 でもまさか、君がここまで忍耐強いとは思わなかったよ。走っている時の君はとても辛そうだったしね。
 荒々しい呼吸は君の鼓動の高鳴りを否応なく俺に感じさせた。弱々しい両足のストロークは、次の瞬間には折れて粉々になってしまいそうだった。それなのに君は1周目を走り終える間際に俺に向かって言ったんだ。

「お願いだから、もう一周だけ付き合って」って。

 額から流れる汗に構ってなんかいられない。君はそれほどにまで体力を消耗していたはずなんだ。だから俺は思いっきり驚いたよ。だってその時君が俺に見せてくれたのは、言葉で言い表せないほどの無垢な笑顔だったんだから。

 強がっているわけじゃない。もちろん暑さと疲れで気が変になったわけでもない。君は走る自分自身に何よりの心地良さを感じていたんだ。だからあの時の笑顔はとても自然で、それでいてとても輝いていたんだね。

 衝撃が全身を駆け抜けた気分だった。くだらない見栄やプライドで卑屈になりながら走る俺自身の心を、その笑顔のまぶしさが浮き彫りにしてしまったように感じたから。
 でも不思議と後ろめたい気分にはならなかったんだ。どうしてなんだろう、理由はよく分からない。ただ一つだけ確信を持って言えるのは、君の走る姿勢がこの上なく俺にとって刺激になったっていう事なんだよね。

 もしかしたら君にとって走る事は、生まれて初めて得られた生き甲斐のようなものなのかも知れない。そしてそんな生きる意味と向かい合った君は、自分自身でも驚くほどに無我夢中でジョギングを楽しめたんだろう。
 俺はそんな君の姿に力強く背中を後押しされた気がしたんだ。今生きるこの瞬間を精一杯楽しめれば、それだけで良いんじゃないのかってね。

 その時は都会の真ん中で思いっきり叫びたい衝動に駆られたよ。そして走る君を後ろから抱きしめたくもなったんだ。だって君の事が本当に大好きになれたのだから。

 無意識のうちに自身の心を束縛していた陸上競技という重荷から解放された。俺はそう感じたんだ。はっきりと体感できたんだよ、身も心も軽くなったってね。
 そしてその主因が君なんだという事も理解出来た。オーバーな言い方だけど、世界ってこんなにも素晴らしいものなんだって思えたんだ。

 もしかしたら君の差し向けた笑顔が、俺の脆弱な心の影を掻き消してくれたのかも知れない。ううん、きっとそうなんだと信じたい。君が俺に与えてくれた勇気と希望は、それほどまでにこの胸を熱く焦がせているのだから。
 そして俺はそんな馳せる気持ちを大切に抱きながら、この夏を一気に駆け抜けたんだ。

 君が見守っていてくれるから頑張れた。キツイ夏だったことも否定できない事実だけど、でもこれ程までに充実した夏を送ったのは初めてだった。

 ただ夏が終わりを迎えた9月の中頃、そんな満ち足りた気分に浸る俺に一大事が勃発したんだ。