やっぱり音楽を聴きながら走った方がリズムが掴みやすいし、なによりも楽しいからね。本番のレースってことで少し気が引けもするけど、でも仮装しながら走る参加者もいるくらいなんだし、音楽を聴きながら走ったって違反じゃないはずなんだ。
 俺は都合良くそう解釈しながら走り出す準備を万全に整えた。

 ついに始まったんだ。俺の新しい未来に繋がる大切なレースの時間が。
 後は全力で走り抜くのみ。

 そう意気込みを露わにした俺は、イヤホンから流れて来るアップテンポの曲にも煽られ闘志を掻き立てる。
 しかしどうした事なのか。現実はいきなり出鼻を挫かれるお粗末なものとなってしまった。

 一体どうなっているんだ。
 スタートの合図が発せられたっていうのに、集団はまったく前に進まない。
 沿道の観客から発せられる声援だけは大いに盛り上がりを見せているのに、いつになっても前方に連なる選手達が走り出さないんだ。

「何かトラブルでもあったのかな?」

 素直な感覚として俺はそう思った。あの秋の大会でのスタート直後の混乱を思い出したのかも知れない。

 ただそんな疑わしげに首をかしげている俺に向かい、またも隣にいたおじさんが声を掛けて来たんだ。
 きっとおじさんは怪訝な表情を浮かべる俺の気持ちを察してくれたんだろう。

「お兄ちゃん、東京マラソンは初めてかい? 分かるよ、今のお兄ちゃんの気持ち。
 早くスタートしたいのに、どうしてみんな走り出さないのだろうか。そんな感じなんじゃないのかな。
 でもまぁ無理もないんだよね。ここにいるマラソン参加者はざっと3万5千人もいるんだ。そして今、私達はその中で前から三分の一くらいの場所にいる。単純計算でも1万人以上の参加選手が私達の前にいるんだよ。
 いくらスタートの合図が鳴ったからって、この渋滞はなかなか解消しないってもんさ。だから焦っても仕方ないよ。そう遅くないうちに動き出すから、それまではリラックスしてこの雰囲気を楽しむ事だね。これも東京マラソンの醍醐味の一つなんだから」

 目尻に深いシワを目立たせながら、おじさんは軽く微笑んでくれた。恐らくおじさんはマラソンの常連なんだろう。だから落ち着いて現在の状況を受け入れていられるんだ。

 ただ俺はそんなおじさんからのアドバイスを把握したにもかかわらず、しかし前のめりになった気持ちだけは収める事が出来なかった。