東京マラソンはおろか、市民参加型マラソン自体が初めての経験だったからね。俺は勝手が分からず、バカ正直に自分が掲げた目標タイムのスタート位置に陣取ってしまったんだ。
 それが大きな間違いだって事にも気付きもしないでさ。

 都知事らしき人が、遠くに見える特設ステージに現れる。もちろんスタートのピストルを奏でる為に。
 周りを見渡せば選手以外にも沿道に人がいっぱいだ。今日一日、選手を応援する歓声が鳴り止む事はないだろう。
 それにテレビ局のスタッフらしき人達の姿も多く見受けられる。もしかしたらすぐ近くに、マラソンに参加する芸能人でも居るのかも知れない。

 でもそんな事は今の俺には関係なかった。いや、他人を気遣う余裕なんてゼロだったんだよ。だって興奮する自分自身を抑え込む事で必死だったからね。

 気持ちは激しく沸き立っている。やってやるさ。そう強がりを吐き捨てずにはいられないほどに。
 俺の中にこんなにも熱い闘志が眠っていたなんて気が付かなかった。いつでもどこか一歩気持ちが引いてしまう俺だったからね。
 それだけに、今回のレースに懸ける意気込みは高かったんだろう。

 そしてそう感じた俺は、無意識の内に口元を緩めていたらしい。
 たまたま隣に居合わせた年配の男性選手に声を掛けられて、俺はハッとそれに気がついたんだ。

「笑っていられるなんて、頼もしい限りですね」

 参ったな。
 俺はただ苦笑いを浮かべていただけなんだろうに。それがそのおじさんには強い意気込みとして伝わってしまったんだろう。

「余裕なんて無いですよ。むしろガッチガチなくらいです」

 俺は照れながら頭を掻きむしった。こそばゆい恥ずかしさに顔を赤らめてね。
 でもおじさんが俺から感じ取った雰囲気はあながち間違ってはいないんだよ。
 だって俺の心は少し前から早く走り出したいと疼きまくっているんだからさ。

 そんな熱狂した士気とすくみ上がるほどの緊張感が交錯する間で、それでも俺は前向きに気持ちを馳せて行ったんだ。

「もう過去を引きずるのはウンザリだ。だから行こう。俺自身の未来を掴み取るために……」

『パーン!』

 俺が心に強く願いを込めたと同時に、スタートを告げるピストルの空砲が鳴り響いた。

「ヨシ、行くぞ!」

 腕に嵌めた時計のボタンを素早く押した俺は視線を前へと向ける。
 そして耳にヤホンを装着し、ポケットに仕舞い込んでいた携帯型オーディオプレーヤーの再生を開始した。