明日へ馳せる思い出のカケラ

 俺の問い掛けに君は何も答えなかった。視線を俺から外した君は静かにうつむく。
 でもそこで君は一度だけ小さく頷いたんだ。

 迅速な蘇生処置のお蔭で彼女は息を吹き返した。その嬉しさに君は涙を流して喜んだはず。

 でもやはり目の前で彼女が突然倒れ、冷たくなった印象のほうが強かったんだね。冷静になればなるほどに、そんな凄惨な状況を思い出してしまうんだよね。

 厳しく悩み、辛く苦しむ。俺も同じだよ。彼女を救った嬉しさは早々に影を潜め、酷く切ない虚しさだけが深く心に傷跡を残す。

 俺は、俺達はあの日間違った行動は何一つしていない。いやむしろ最善の対処を施したはずなんだ。それなのに何故これほどまでに耐え難い苦痛に苛まれなければいけないのか。

 それでも俺は少しだけ救われた気がした。苦しんでいたのは俺だけじゃないって、そう思えたから。自分本位の身勝手な考えだけど、君の心情を察した俺の不安は霞んでくれたんだ。

 引きつった表情だったかも知れない。でも俺は君に向けて微笑んで見せた。君に言いそびれていた言葉を思い出したから。
 君を元気付ける為に用意した言葉じゃないけど、でもそれを伝えるには笑顔が一番しっくりくるはず。だから俺はうつむく君に向かって、似合わない笑顔で言ったんだ。
 精一杯の想いを込めて。

「あ、あの時はお礼を伝える為だけに戻ってきてくれて、すごく嬉しかったよ」

 異性に対しての抵抗はさほど無いはずなのに、この時は緊張した。単純に恥ずかしかったんだ。

 素直に感謝の言葉を口にした事など、思い返せば記憶に無い。照れという心の分厚い壁が立ちふさがり、今までの俺は誰に対しても恥ずかしむばかりで感謝の気持ちを表現することが出来ていなかったんだ。
 でもそんな俺が自分でも不思議なほど自然に口にした『嬉しかった』という言葉。自分でもちょっと信じられないよ。

 自分の意志では抑えられない顔の火照りを感じた。口から火を噴きそうなほどに気恥ずかしい。でも決して悪い気分ばかりじゃない。

 自分の口から出た言葉の響きに鳥肌が立ったのは事実だ。けどそれ以上に俺は満足感を覚えたんだ。
 君に感謝しているのは本当の事だし、その想いを素直に告げる事が出来た。まるでノドに詰まった異物が取り除かれたかの様にスッキリと気分が晴れていく。こんな感覚は生まれて初めてだ。

 あまりの爽やかさに俺は良い意味で驚いていた。そしてさらにもう一つ驚いたんだ。その時に君が俺に向けて見せてくれた笑顔にね。

 あの日感じた嫌悪感を引きずる君は、俺とは違ってまだ気分を切り替える事が出来ていないはず。でも君は俺の告げた感謝の言葉に対して笑顔で応えてくれたね。少し驚きもしたけど、でも俺にはその時の君の笑顔がとても素敵に見えたんだ。

 彼女を救ったあの日に見せてくれた笑顔も眩しいほどに輝いて見えたけど、今度の笑顔はすごく優しいものに感じられた。柔らかくて温かい。ホッと気持ちの安らぐなごやかさに包まれてゆく。そして俺も君の無垢な笑顔につられるよう、満面の笑みを浮かべ返したんだ。