おそらく、彼には雰囲気や勢いでどうにかしようという発想がない。

たとえ、互いが“そういう気分”で、しっとりと寄り添う感じがあったとしても、彼は必ず言葉をもって確かめる。

「千佳さん」

そりゃあ「“せっくす”しましょう」みたいなあからさまな言い方はしないけれど。

「いつもの“約束”は大丈夫?」

私はこっくり頷いた。

“約束”というのは、ふたりで決めた、ふたりだけの“秘密の言葉”。

私たちはどんな理由であっても、始めた行為を止めることができる。

“秘密の言葉”は言うなれば、拒否権を行使する呪文というか。

決して私だけに与えられたものではなくて、彼もまた唱えることができる呪文。

「秋彦さんも、ですよ?」

「はい」

私に問われて生真面目に頷く彼の、なんと愛おしいことだろう。

見つめ合えば言葉は要らないとか?

ムードづくりが大切とか?

そういう文化(?)とは無縁の私たちの始め方。

ふと、さっきから持ったままの、頑張って外した(?)眼鏡に気づく。

「眼鏡、安全なところに置かなきゃ」

すっくと立ち上がって、素早くサイドテーブルに行って戻る。

私は心持ちかしこまって、ほぼ元の位置に律儀に座った。

(えーと……)

速まる鼓動は、きっと――緊張ではなく、期待から。

いっそう高鳴る鼓動が苦しくて。

だけど、今この瞬間が幸せで。

彼の大きな手が、目を伏せた私の髪に触れる。

「千佳さん」

その手のひらが、髪を撫で、肩を撫で、滑らかに腕をつたう。

彼がふわりと包み込むように私の手を掴む。

ようやく辿り着いた彼の手と、待ちわびていた私の手。

「キス、しても?」

「……!」

とてもとても優しい声、だけど――。

(わざとだ……)

彼はいつだって私の気持ちを尊重してくれる。

大切に想うからこそ、言葉を尽くし、心を尽くす。

でも、ときどき今みたいに半分意地悪みたいなことをする。

ちゃんとわかっているくせに、わかっているからこそ……。

でも、私だってわかっている、わかっているから……。

私は横から思い切り抱きついて、わざと不貞腐れた口調で反撃した。

「望むところです。やる気は十分ですから」

こんなことで彼は気を悪くしたりしない。

「素晴らしい心意気だ」

彼はちょっと困ったように笑うと、私の髪をくしゃりと撫でた。

「ごめん」

「何がです?」

「少し意地悪しました……」

「でしょうね」

「怒ってる?」

「怒ってませんよ」

「じゃあ、仕方のない人だと思ってる?」

「まあお互い様ですよね、そこは」

くすりと笑って顔を上げると、彼が大事そうに私を見てた。

静かだけれど、ほんのり切なく熱っぽい瞳。

ゆっくりと近づくその気配に、ぎこちなく目を閉じる。

唇に柔らかな感触があったと思えば、すぐに離れて……でも、すぐまた触れ合って……今度はもっと、もっと……ゆっくり深く重なった。