彼は長湯なので先に入ってもらって、私はちょうど洗い場が空いたかなという頃合いにおじゃました。

「あ、今日は桃ですね」

ふんわりと甘い香りがお風呂場いっぱいに広がって、きれいな薄桃色が湯船をほんわか満たしている。

その日の入浴剤を選ぶのは、お風呂を準備した人でなく、最初にお風呂に入る人。

わざわざ決めたわけじゃないけれど、自然にそんなルールになっていた。

「最近使ってなかった気がして。こういうフツール系の香り?」

湯船で寛ぐ彼がやわらかなお湯を掬って見せる。

「たしかに。今日はラベンダーとかよりこういうのがよかったです」

「ならよかった」

「すごい癒されそうです」

(私……ふつうに会話できてるよね?)

慣れないことをしているし、やっぱりちょっと恥ずかしい。

でも、恥ずかしがっていることを見透かされるのはもっと恥ずかしくて。

とりあえず風呂イスにすわって体をを洗おうとした、のだけど――。

「秋彦さん」

「なんだろう?」

「洗いにくいです」

彼がこちらを見すぎの件……。

「どうぞお気になさらず」

「気になりますよ……」

「だって、これが最初で最後かもしれないし?」

(ええ、ええ、確かにそんなこと言ってもったいつけましたけどね)

「だからってそんな」

「大丈夫。残念ながら実はあまりよく見えていないんだよ、裸眼だからね」

だったらなぜにと思ったけれど「どうせ見えないのに?」なんて聞き方はよしておいた。

「そうなんですか?」

「うん。でも、よく見えなくてもいいんだよ。一緒にお風呂に入ってる感を満喫したいんだから」

「そういうものですか?」

「そういうものだよ」

「そう、なんですね」

(よくわからないけど……)

もくもく体を洗って、わしゃわしゃ髪を洗って、仕上げに顔を洗って出来上がり。

ヘアゴムで髪を結わえて準備完了。

「おじゃましても……?」

「もちろん」

さて……少なくとも、背中合わせという選択肢がないのはわかるけど。

向かい合うべきか、合わぬべきか、それが問題だ……なんて。

慎重にそろーりと湯船に入ると――。

「あっ……」

ひょいと引き寄せられて、背中から抱きすくめられる格好に……。

がっしりホールドされたわけじゃないけど、完全に自由を奪われた、みたいな。

「私、身柄を拘束された感じですかね」

「こらこら、なんということを」

彼はくすりと笑いながら、わざとたしなめるような口調で言った。

けど、そうかと思うと――。

「こうしているのは嫌?」

「いや、だなんてことは……」

(そんな、耳元で囁くように言うとか反則すぎるし)

正直、彼の胸に背中をあずけて寛ぐ感じは、とてもとても心地よかった。

しっとりと香る薄桃色のお湯は、うっとりするほど肌馴染みがよく気持ちがいいし。

でも、心地よすぎて、気持ちがよすぎて――。

「あっ、やっぱりこのうちのバスタブってけっこう広めですよね」

私は気持ちを切り替えたくて(誤魔化したくて?)話をそらした。

ひとりで湯船に浸かりながらいつも広々だなぁと思っていたけれど。

ふたりで入っても想像していたほどの窮屈さはなくて、「ゆったりだなぁ」とあらためて実感していた。

「マンション購入時にいくつか選べたらしいよ。うちはバスタブを少し大きめにするかわりに、洗い場が少し狭くなってるらしいよ」

「そうなんです? 洗い場、ぜんぜん狭い感じとかしませんけど」

「ファミリー向けのマンションだから。風呂場全体の面積が基本的に少し広めなのかもしれない」

「なるほど」

他愛もない話をしながら、頭の中はぐるぐるだった。

本当はこんな話をするためにお風呂に誘ったわけじゃない。

もっと、ちゃんと、話したいことがあったから――。

「あの、ですね……」

「なんだろう?」

「私の考えというか、思っていることを、聞いてもらっていいでしょうか?」

「もちろん」

髪や背中に彼の優しい気配を感じながら、私はおずおずと言った。

「けっこう勝手なことを言うかもしれないんですけど、それでも……?」

「なんでも」