「辞めないか。紗耶香落ち着きなさい。」
紗耶香の肩をしっかりと掴み彼女を窘めるが効果は薄く、紗耶香は更に興奮している。
「離して下さい。この女は、もう他人です。それどころか、私から継人を取り上げに来た悪魔なの。」
紗耶香の千尋を睨む目に、憎しみが感じられた。
千尋は、静かに紗耶香を抑え混む私の横を通り過ぎると、書斎のドアへと向かった。
そして、私達の方を振り向き深々と頭を下げた後、小さな声でこう呟いた。
「継人は、私とそして、麗人さんの子供です。」
紗耶香は、千尋の言葉を聞くと、今迄の勢いが嘘の様に、まるで糸の切れた操り人形の様に力なく座り込み、気絶した。
千尋は、そのまま書斎を出た。
私は、外に待機していた佐土原を呼びよせ、紗耶香を寝室に運ぶ様に頼んだ。
その晩、紗耶香はその短くも不幸な人生に自らの手で終止符を打った。
結局、私は紗耶香を救ってあげる事が出来なかった。
救うどころか、彼女を苦しめていたのはきっと私だろう。
どれだけ、医学を身につけても自分の妻一人も癒やしてやれない自分が酷く滑稽で情けない。
葬儀の間、継人を含む子供達皆が泣いているのを見て少し心が救われていた。
それだけで、紗耶香があの子達にとって良き母親だったのだと充分に伝わる。
そして、紗耶香が病んでいた事実を今後この子達が知る必要も無い。
葬儀も滞り無く済んだ後、不謹慎かも知れなかいが私の頭の中は、継人の今後の事で一杯だった。
継人は、紗耶香の式以降、ずっと自分の部屋に引きこもり、外に出る事を拒んでいた。
それも、仕方ない。唯一の味方だった紗耶香がいない世界に恐怖しても何ら不思議ではない。
ただこのままでは、継人が酷く不憫だ。
私は、彼が今後一人でもこの黒川の家に負けない人間として生きていく為にも強くなっ欲しいと願う。
継人の失われた生気を取り戻す為に、彼の心の中に私に対しての憎しみを植え付ける事を決めた。
幸いにも、継人は深く紗耶香に心酔していてくれていたのでそれを逆手に取ればきっと上手く行く。
人間とは、至極単純で悲しい生き物だ。
強過ぎる愛情は、深い悲しみを産み、そしてやがて悲しみは憎しみを育てる。
どんな形であれ生きて欲しい。
例え私を深く憎み、嫌悪し蔑んでも、その感情を糧に生きて欲しい。
いつかそんな君の悲しみを拭う人が現れる。