「紗希」


名前を言われて、更に動揺した。

徐々に近づいてくる青年に、紗希は恐怖心を抱いて自転車のハンドルを握りしめる。


「俺の事、忘れたのか」


紗希の目前で立ち止まった青年が、寂しげにそう言った。

重たい霧が二人の間に流れ、田んぼから大きな蛙の声がした。

紗希は困惑して、

「……あの、どなたですか」

と、問いかけた。


「……俺、慶一郎様に、五歳の時弟子入りしたんだ」


慶一郎とは、紗希の父親の名前だ。

山の麓の道場で、剣道を教えていた。

紗希が幼いころに家を出て言って、十五になった今まで全く姿を見せない。

確かその道場は、ここ十年以上締め切られている。