猫とアトリエとペパーミント

 ホテルのエントランスから2階に上がって、その奥。クロークと受付が現れた。特に預ける物もないのでクロークは素通りしたが、きらびやかな服のお姉さんとたくさんすれ違った。この時始めて、ドレスを買わなかったことをちょっとだけ後悔した。まあいいや、誰も見てないよね。
 お父さんから一歩引いて歩く。受付を済ませて、その隣にある扉から会場に入った。
 ふわっふわの絨毯にヒールをとられながらも、目に入ったのは色とりどりの人。男性はみんなスーツで、ネクタイだけが彩りだけど、女性はみんなドレス(カジュアルなスーツの人もいる)で、私の味覚は大忙しだ。
 赤は甘い、青は酸っぱい、黄色は優しい苦み。食べてないのにお腹が一杯になりそうだった。そしてなにより、

「すごいね、あれ!」
「だろ?今日のパーティー用に財団からお借りしたらしい。同伴者1人OKって言われたから、さくら子ちゃんが見たら喜ぶと思ってね。どうかな」
「ありがとうお父さん!うわあ、迫力があるなあ、油彩だよね。誰の絵かなあ」

 パーティー会場にあつらえてあるステージの右横には、巨大な絵画があった。森にたくさんの動物と、中央に裸の男。そして髭を蓄えた立派な男性。聖書の創世記だ。
 お父さんに許可をもらって絵画の近くに寄った。近くといっても真下に行くと見えなくなるので、絵が見える範囲で近づいた。額縁には金のプレートが打ち付けられており、英語で何か書いてある。
 細部まで緻密に描かれたそれは、いくら見ても見飽きることはなかった。だから、後ろに誰か立っていることも気付かなかった。

「絵がお好きなんですね」

 突然降ってきた優しいテノールに、私は肩を揺らして驚いた。バッと振り返ると、山吹色のストライプが入った青いネクタイが目に飛び込んできた。渋柿のような味覚が襲ってくる前に顔を上に上げた。視界にさっきの青緑が入った。途端に味覚をリセットするペパーミントが舌いっぱいに広がった。

「あ」

 幽霊じゃなかったんだ、と頭のどこかで思った。