君だけはあきらめない【ある夏の一日】


夕闇が近づく。夜の虫が鳴き出して、少し冷えてきた。
満腹になった翔がぐずり始める。
「このまま寝ちゃいそう」
園子は翔を抱っこしたまま、デッキを行ったり来たり。「お風呂どうしよう」
「今入れるのは大変だから、明日の朝シャワーを浴びさせたら?」
「あせもになるかも」
「でももう入れられないよ、ほら」
達也が動かなくなった翔のほっぺを触る。「ぐっすりだ」
「疲れたのね」
「はしゃいでたから」
「私、翔を拭いて、着替えさせてくる」
園子は翔を抱いたまま、虫のついた網戸を開ける。
「リビング脇の部屋に、布団を敷いて寝よう。寝室のベッドは落っこちるかも」
「そうね」

びくともしない翔を寝かせ、リビングの明かりを小さくして庭に戻ると、達也がバーベキューの火を落としていた。
「ここから翔が見える?」
「うん、大丈夫」
お皿に乗せたお肉や野菜を持って、達也はデッキチェアに座った。月明かりでシャツが青白く光る。
「お疲れ様。ワイン、飲む?」
園子が尋ねると、「うん、やっと大人の時間だ」と達也が答えた。
「冷えてきたわ」
「毛布かぶろう」
デッキチェアーを並べて、膝にグリーンの柔らかな毛布をかける。
「静かだし、真っ暗ね」
「うん」
背もたれに体を預けて、達也がリラックスした表情を浮かべた。
「あ、そうだ。山本くんのところから、お礼状が届いてた」
「結婚祝いの?」
「そう」
今年の夏、朋生と紀子は、長い同棲生活を終えてとうとう籍を入れた。
「式はしないって?」
「うん、その分のお金を新居に使うって」
「しっかりしてるな」
「うん。紀子がね」
ワイングラスをテーブルに置くと、達也が園子の手を握る。落ち着く温度。
「お中元のお礼状書くの、大変だったろう?」
「うん」
思わず本音が出る。「でもあの量をお母様だけで書くのは大変よ」
「お中元は遠慮するって言えばいいのにな」
「お父様もお母様も、翔に会いたかったみたいだし。近いところに住んでるもの。大丈夫よ」
そう言うと、達也が「園子、おいで」と腕を引き寄せる。
達也の膝に乗り、毛布に二人で包まる。髪に頬をつけると煙とほのかなシトラス。園子は目を閉じた。
「俺はいつも忙しくて、ほとんど家にいないし、翔のことも実家のことも任せっぱなしだ」
「わかってるから、いいの」
園子の腰に回された腕に力がこもる。
「こんな厄介な家に来てくれて、本当に感謝してる」
「忙しいのに、達也さんは家庭を気にかけてくれるわ」
達也は園子の髪を指に絡めて、そっと顔を寄せる。
「ありがとう」
心地のいいキス。情熱や胸のときめきを伴うキスじゃないけれど、園子の心は満たされる。

顔を上げると、真っ暗な空に白く霞む帯が見えた。
「見て、天の川」
園子は指差した。
「よく見えるな。夏の大三角形も、ほら」
達也はそう言うと、園子の瞳を見つめ笑いかける。
「この場所が、こんなに素敵だったなんて、子供の頃は気づかなかった」
園子は愛しげに達也の頬に手を当てた。「明日は、遊覧船に乗らない?」
「いいね」
達也がもう一度園子を引き寄せる。「愛してるよ」
「私も、愛してる」
緩やかな風が、木々を揺らす。夜の虫の声と、深い静寂の音。
今度のは、胸が高鳴るキス。
「静かにできる?」
「自信がない」
園子は恥ずかしくてうつむくと、達也が園子の首筋に唇を当てて「じゃあ、どうしようかな」と呟く。
すると突然、大きな泣き声が部屋から聞こえてきた。
二人は顔を見合わせる。それからあきらめの笑みが浮かんだ。「大人の時間は終了だ」
「はいはーい」
園子は毛布から出て、部屋に入る。振り返ると達也も一緒に入ってきた。
「三人で寝ようか」
「そうね」
そして、二人は並んで、泣いている翔の部屋へと入っていった。


<完>