「待って!!」
何故追いかけてきたのだろう。働かない頭の中、忘れ物を届けに走ってきてくれたのかと逃げ道を作るも、そんなものはない。
追いかけてきたのは冬夜だった。振り返らずとも声だけでわかった。大好きなテノール。
雪穂を引き止める強い力。そこには必死さが隠すことなく滲んでいて、けれど決して雪穂に痣を作るほどのものではなく。
「……離して、下さい」
「嫌ですっ。話しをさせてほしいっ」
「離して下さい」
その顔なんて見ない。掴んでくる手の爪さえも目に映さないよう、雪穂はタクシーに乗り込もうとする。押し問答を続ける様子に、優しそうな顔の運転手は困っているようだった。
「雪穂さんっ!!」
「っ」
初めて名前で呼んでくれるのが今なんて反則だ。どうしても嬉しくなって振り向いてしまいたくはなるし、まるで小説の彼女が自分だと、また自惚れてしまいそうになる。
違う、違うと、もう暗示をかけないと正気でいられないというのに……。
「……離して下さい。貴方と私は、今、会う人間ではありません。顔を合わせるのはあの日だけです」
乱暴な方法ではあったけれど、雪穂は空いているほうの手で自分を掴む冬夜の手の甲に爪を立て、隙をみてタクシーに逃げ込んだ。
追いかけてこようと思えば、雪穂がタクシーに乗るのを阻止するなど、きっと出来ただろう。けれど冬夜はそうしなかった。
自宅方面へと出発してもらうと、やっと大きく呼吸が出来た。顔色が優れないのか、運転手が車内の温度の希望を訊ねてくれる。それ以上のことを話しかけられることはなく、ようやく目を閉じた。
雪穂は、この日の行動と発言を悔いる毎日をそれから過ごす。
答えなどまるで出ないまま、そうして、今年最後の日を迎えることとなった。



