ゆえん



一時間ほど経って、冬真さんとマユが戻ってきた。

マユは冬真さんの背中で眠っていた。

負ぶっている冬真さんの表情が幸せそうだ。

マユは見事に冬真さんの心を癒している。


「遅くなってごめん。忙しくなかった?」


冬真さんはマユを奥の休憩室で寝かせて、カウンターにいる私に声を掛けた。


「大丈夫です。今日は本当、お客さんが少なくて」

「そっか。木下も休憩してきて。俺が居るから」


冬真さんはマユの前以外では「木下」と呼ぶ。

今朝はマユの前でも「木下」だったけれど。


「冬真さん、マユが寝ている時でもリサでいいですよ。私もそう呼ばれるほうが……気楽です」


本当はそう呼んで欲しいと、そのほうが嬉しいと伝えたかった。

冬真さんは苦笑いをしていた。


「俺は木下と呼びたい。そうでないと名前を間違ってしまいそうで、申し訳ないから」

「え?」


冬真さんは私の顔をじっと見て、首を傾げながら頭を掻いた。


「君は神懸かり的に沙世子に似ているから」


そう言って冬真さんは微笑んだ。

その微笑みがあまりにも儚く見えて、どうしようもなく私は沙世子さんに成りたくなる。

自分の気持ちが分からなくなってしまう。

今朝は沙世子と呼ばれるのは耐えられないと思った。

でもこの瞬間は沙世子さんが愛されたように愛されるなら沙世子と呼ばれてもいいと思ってしまう。