井島先生は英語の先生として今年、この学校に赴任してきた28歳の若い先生。
男性にしては小柄で、170㎝あるか、怪しい。

自己紹介も兼ねた最初の授業で、生徒たちにからかわれてされた恋愛の質問に対して冗談を交えながらも赤裸々に答える話し方に、私は苦手意識を持っていた。

-ちょっと、馴れ馴れしいな。この人。

そんな先生の授業も嫌いになり、私は保健室に逃げることが多くなっていた。

そんなある日の放課後、私は保健室に来ていた。
保健室の先生⚫長谷川先生に名前がない生活についての相談をするためだった。
その日、長谷川先生は席をはずしていて、私は保健室で待つことにした。

誰もいない静かな保健室で、私はB5のノートを広げて物語を書き始めた。
私の趣味だ。
普通のノートに誰にも見せることのない物語を書く。
その物語のなかでは私と同じ人は出てこない。私は私一人で、私が主人公になれた

物書きに没頭していると、突然保健室のドアがあいた

「失礼します!長谷川先生」

勢いよく入ってきたのは井島先生だった。
私はドアの開く音と、井島先生の声に驚いていつもは滅多にあげることのない顔を思いきりあげて井島先生を見ていた。

「あれ?木村だけ?」
「え?!あ、はい。長谷川先生はまだ…」
「そっか、参ったなぁ」

井島先生は長谷川先生がいないとわかると、頭をかきながら保健室を出ていった。
私は動けなかった。
井島先生が、私を木村と呼んでいた。
逃げ回っていた私は井島先生の授業も数回しか受けたことがないのに、井島先生は私を覚えていた。
その事が嬉しくて、顔が緩むのを抑えられなかった。

数分後また保健室に井島先生が入ってきた。
私を覚えていてくれた井島先生に私の警戒心はだいぶ薄れ、井島先生を確認すると自然に顔が上を向いた。

「いたいた。長谷川先生、今日はこっち来るの無理そうだ。」
「あ…そう、ですか」
「悪いな、部活の生徒が怪我しちゃって病院に付き添ってもらうことになったんだ」
「わかりました。私も、帰ります」
「ごめんなぁ、昨日も授業で俺の方が答え間違えちゃうしなー」

-昨日も授業で?

私は授業を受けていない。
英語の授業も保健室に逃げていたから
昨日の授業で私と井島先生が会うことはない。
ということは、井島先生が言っている「木村」というのは私じゃない。

-妹か。

「…、私。3組じゃないです。和海じゃないですよ」

間違われたときは明るく否定。
ムキになったり、冷たくしたら「そんなことで…」とまた辛い言葉が帰ってくる
これまでの経験で学んだことをいかして、私は笑顔で対応した。
したつもりだ。
実際は顔は下を向いているし、声は震えていて明るい感じは全くない。
勝手に涙が目に溜まり、床は次第に歪んでくる。

井島先生が、何をしているかはわからないけどいつもの軽い感じで
井島先生が保健室から出ていってくれるのを待った。

「っ!ごめん!!」

待ち望んでいた、軽い謝罪とドアの音とは違う
大きな声が私の耳に入ってきた。
恐る恐る顔をあげると、井島先生は腰をほぼ直角に曲げて私に頭を下げていた。

「?」

私は何がなんだかわからなかった。
今まで、こんなに真剣に謝る人を見たことがなかった
今まで、こんなに私の中の重大さを理解してくれる人はいなかった。

「ごめん。木村…、愛海だよな。本当にごめん」

井島先生は少し頭をあげて私を見た。
私はさっきの悲しさと今の嬉しさで、ポロポロ泣いていた。
自分でもわかる。泣きすぎている。

案の定、井島先生はあわてていた
私が袖で涙をぬぐうも、どんどん溢れる涙に追い付かない。
井島先生は泣いてる私のそばに駆け寄り、そっと、ハンカチを頬に当てた。

「あ、だいじょぶです。ありがとうござい、ます。」

優しくされると余計涙が出るのに、井島先生はお構いなしだった。
私の頭を2回優しく叩くと、一歩後ろに下がり屈んで顔をのぞき込んできた。

「ほんとに、大丈夫か?ごめんな」

私は首を小さくたてに降ることしかできなかった。
声を出したら、また、涙が溢れてきそうだったからだ。
これ以上井島先生は謝らなくても良い筈だ。
私には謝罪の意志が充分伝わっているのだから。

「大丈夫です。ハンカチ、洗って返します」
「いいよ、そのままで。俺が悪いんだしな」

井島先生が少し髪をかきあげて、悲しそうな顔をした。
私は頭をブンブン横にふってハンカチを大事に抱えた。

「せんせい。ありがとう」

-私の問題に、真剣に謝ってくれて。
-私の名前を呼んでくれて。

私の言葉に井島先生はよくわからないと言う顔をしていたけど、私はハンカチを返さないまま井島先生と保健室をでた。

長谷川先生が病院に付き添うため、井島先生は鍵を閉めに来ていたのだ。

「先生。さようなら」
「ん。気を付けろよ」
「はい。」

私は下駄箱に向かった。
いつもより少し顔をあげていた。

「愛海」

少し歩いたところで、井島先生の声がした。
私の名前を呼ぶ声。
久しぶりに人から名前で呼び掛けられることに、私は嬉しくてすぐに振り向いてしまった。

いつもは私じゃない可能性も考えて暫くは動かないように努めていたのに、そんなこと考えていられなかった。
体が、とっさに動いていた。

-いつもと違う。

私の名前で呼ばれたのは、確かに私だった。
井島先生は私を見ていた。

「どうしました?」
「授業、来いよ」

井島先生の言葉に私はまたうつむいてしまった。
怖いのだ。教室は。
下唇を噛み締めて、井島先生を見ると
さっきより井島先生は近くに来ていて、また、私の頭に優しく手をおいた。

「俺はもう、間違えないから」

暖かい手の温もりと、暖かい言葉。
私は涙目になって2回頷いた

1回目は授業に出るという決意。
2回目はもう間違えないという宣言に対しての期待の頷き。

「よし。また明日、教室でな」
「はい。また、明日」

私が靴を履き終わるのを見届けて、井島先生が手を軽く振ってくる。
私は先生に対してどう対応したら良いのかわからなかったけど、相手がしているのだから私も小さく手を振った。

いつものように一人での下校道。
私の心は井島先生で埋め尽くされていた。

-あんなに謝るなんて。
-もう、間違えないなんて。
-おかしな人。
-あんなに真剣に…
-あんなに…

-私の心を軽くしてくれた。
-信じたい。あの人を。
-井島先生に呼んでもらいたい

-私の名前
-私だけの名前


この日
私は井島先生に恋をした。