相手の女性はすでにこっちを向いていて、申し訳ないという顔で先に謝ってくる。僕は咄嗟に帽子に手をやって、小さな声ですみませんと謝った。

 イライラしていた気分が、吹っ飛んだ。

 あの人がまとう香りと、その声と、細められた瞳に。

「あの・・・大丈夫です。こちらこそ、鞄があたってしまって」

 普段なら言わないそんな言葉もつけたのは、彼女がきっちりとこちらに体をむけてみていたからだ。

 あ、すみませーん、のような謝罪でももらえればラッキーと思える状況で、僕はえらく素敵な言葉を貰ってしまったらしい。

 緩くウェーブを描いた茶色の髪の毛がふわりと揺れる。その度にあの柑橘系のいい香りがして、僕はちょっと夢心地だった。

 彼女はもう一度頭を下げると自分の列へと視線を戻す。僕ものろのろと前に向き直った。

 お互いが待つ電車が、それぞれにホームに滑り込んできた。


 電車の中で揺られながら、さっきぶつかった人を思って僕はボーっとしていた。

 顔・・・はイマイチ覚えてないけれど、全体像と、あの目は覚えている。すっと上に切れ上がった瞳に長い睫毛、その黒目がキラキラしていたように思う。

 惹かれたのは香りか、瞳か、それとも雰囲気か。あの透き通るような高い声か。

 僕はぼーっとしたままで出勤し、その日一日、その人のことが頭から離れなかった。