車は広くて綺麗な病院で止まった。
脳外科と書かれた看板を見て、むせ返るような消毒の匂いがする世界へと扉を開ける。
512号と書かれた部屋の前に来た時、おばさんは足を止める。
「ここだからね。2人で話したいこともあるでしょう。私はまた夕方に来るから、じゃあね。」
そう言うとおばさんは踵を返した。
ゆっくり扉を開ける。
康雅は美しく花の飾られた花瓶の横にある、クラス写真を眺めていた。
「康雅」
いつも通り、呼んでみる。
康雅は喜びを含むように目を丸くして、こちらを振り返った。
でもその明るい表情は弘貴をとらえるとすぐに曇った。
なにも言わずに引っ越したことに、気まずさを感じているようだった。
真っ白な静けさが2人の間に流れて、弘貴が口を開いた。
「ずるいぞ。」
ずるいぞ、なにも言わないで。
ありがとうだけ残していくなんてかっこいい役。
「俺だってかっかよくお別れしたいよ。」
そう言うと、康雅に少しだけ笑顔が戻った。
ごめん…。
康雅自身、自分が記憶障害になるということは認めがたくて理解しがたかったらしい。
だから自分が記憶障害になるときちんと告げられなかったと言う。
そして、大切な友のことを忘れてしまうのが怖くて、申し訳なく思ったことも。
「康雅が申し訳なく思うことじゃないじゃん。康雅のせいじゃないんだから。」
「でも、怖いよ。弘貴、俺、怖い。」
康雅の目から涙がこぼれた。
「弘貴が久しぶりに会いに来た時、俺だけ初めましてって思うの怖いんだよ。それじゃ嫌なんだよ。」
僕は医学的なことはなにもわからない。
康雅の障害がどれほどの範囲に及ぶものなのかも、どれほどのスピードで進行していくものなのかも、知らない。
それでも、
「大丈夫だよ。」
そう気づいたら言っていた。
康雅がどんな慰めや支えを必要とし、どんな言葉を求めていたのか、わからなかった。
けれど、大丈夫、そう思ったのだ。
僕を忘れることへ異常なまでに恐怖を表わす康雅の気持ちがあれば、康雅が例えどんな状態になっても受け入れる僕の強さがあれば、互いを思う心があれば大丈夫だと思った。
自分でも驚くほどの確信に、改めて友情に物理的根拠や科学的証拠はいらないのだと感じた。
康雅なら僕を忘れずにいてくれる。
現実逃避ではなく、本気でそう思った。
忘れてしまったら、僕が教えてあげればいい。
何度も、何度でも。
忘れてしまったって、2人で居られたら淋しくなんかない。