唇トラップ


昨夜の後味 _ 5




午後の始業に備える女子たちでごった返す、オフィスの女子トイレで。
眞子から借りた歯磨き粉は、レモンジンジャーの味がした。




「初めての反抗、だね。」



口を濯ぐ隣で、眞子は真剣な顔で鏡と向き合い、リップを塗り直す。



『え?』

「あんなに清宮さん一筋だった十和子が、他の男に身を委ねるとは。」

『委ねてないっ!汗
気付いたらキ、』



鏡越しに目があった若い女子の目が気になって。



『…されてたんだってば。』

「はいはい、不可抗力だったってことね?」



一応、頷いたけど。
二回目のあれは、最後まで彼の一方的なものだったのか。

彼の首元に縋った自分を、思い出した。




「責めてないよ、あたし。むしろ」


鏡の中の眞子は、すっと笑みを引っ込める。


「よくやってやったな、って思うよ。」


会社の顔、受付嬢として働く眞子。
出したり引っ込めたり、その綺麗な笑顔を上手に操るけど。



「清、…彼が許せない。
目には目を、歯には歯を。私の信条。」



私は一番、この真顔が好きだったりする。




「それにしても、よく名前も知らない人と…できたよね。」



私も化粧直ししようと、エルメスのボリードポーチを覗いた。
去年のホワイトデー。柊介からの、甘いメッセージカードを添えられた贈り物。



『…できた、には語弊があるけどね。』


もっと正確に言えば、“名前だけは、知ってたし。”
知ってたというか。耳にしたのを覚えていたと、いうか。





彼のことは、知らない人の方が少ないんじゃないか。

私だって耳にしたことがあった。
女子たちが彼につけた、“社内史上最高の男”という輝かしい肩書きを。


“八坂蒼甫”
また心に浮かんだその響きに。唇が、ジンとひりついた。


その名前は、眞子にはまだ言ってない。
出し惜しみではなくて________
乙女な眞子が、張り切ってしまうような予感がしたから。





「ま、社内の人間ならそんっなに危ない人もいないだろうけど…。
なんか信じられないなぁ、ドラマみたいだわ。」




自分でもそう思う。
閃光のような、昨日の出来事。
何もかも夢だよと言われても。容易に信じられそう。







「でさでさ、その…それ、自体はどうだったの?」

『それ?…ああ、うーーーん。』