唇トラップ


昨夜の後味 _ 4



なぜか急に、緊張した。

さっきまでこの人と、あれだけの口づけを交わしたはずなのに。
ただ隣に座って外を眺めているという距離にさえ、汗を感じるようになってしまって。

私はもう何も発せず、ひたすらに窓の外の景色に張り付いていた。


彼も勿論、触れて来もしなければ、もう笑いかけてくれることもなくて。
窓際に肩肘をついて、ただ外を見ていた。












『ここです。』


やっと辿り着いた、マンションの前。
バッグからお財布を取り出そうとした手を、彼の声が抑えた。



「いらねぇよ。」

『え、けど…』

「大丈夫、お前よりもらってるから。」



もらってるって…お給料だよね?八坂さんって、先輩なの?
あれ?けどお前よりってことは、私を知って________




「早く降りろよ。」

『あ、はい。』



じゃあ、と頭を下げたけど、彼はもう窓の外に向き直ってた。






夜の道路に、自分のヒールの音が響く。
足早に降りたタクシーを離れて、エントランスの階段を真ん中まで駆け上がったところで、振り返ると。





『え…』



彼はなぜかタクシーを降りて、立っていた。
腕を組んで、タクシーのドアを背凭れにするようにして。

きっと、私を見ていて。





何となく、頭を下げてみると。
右手を軽く上げてくれたけど、また直ぐに腕組みに戻した。




その瞬間、ピリッと熱くなった唇。




慌てて残りの数段を駆け上がって、たったそれだけで息を切らしながら、オートロックを解除した。

振り返らないままエレベーターに飛び乗って、気づけば長い廊下を部屋まで走っていた。


玄関で、ヒールを脱ぎ捨てて。




『…いたっ…』




バッグもその場で手放したら、自分の足の甲に落としてしまった。
鍵も放り出して、暗い部屋であちこちぶつけながら、辿り着いた出窓。部屋の電気もつけないままに、カーテンを開けて下を覗くと。








『…いない…』



もうそこに、タクシーに寄りかかった彼の姿はなかった。
彼を乗せた後ろ姿がないかと、道のその先も覗いたけど。タクシーはもう、欠片も見えなかった。








瞬間、襲ってきた不思議な感覚。


さっきまでリアルに見ていたはずの景色が。切り取られて、一枚一枚甦ってくる。



視界に入った男ものの革靴、肩越しに差し出された大きな掌。

床上から引き上げられていく、スローモーションの世界。
目が合った途端、射抜いた瞳の強さ。

唇を覆った、ミントの味。

頭に触れた、彼の体温。








ピアスとネックレスを外して、そのままベッドに倒れこんだ。
鼻から大きく息を吸って、彼の残り香を探す。

甘く深い、あの香り。

甦った感覚に、なぜか身体が解けていく。





私は、柊介を思い出さないことを、思い出せないまま。
波のような微睡みに、沈んでいった。