唇トラップ


昨夜の後味 _ 2




「家、どこ。」



タクシーのドアに手をかけて、シートに沈んだ私を見下ろす。

あれだけのキスをしておきながら、八坂蒼甫は本来の役割を務めたがるエレベーターを降りた後。
あっさり私を、タクシーに押し込んだ。





『か、帰るの?』

このまま、一人で?



「帰れよ。」

驚いて見上げれば、逆に驚いたように即答された。




「だから、家の住所。」



彼の視線が、ふわっと運転席に泳ぐ。
下を向いて、きっともう殆ど色の残っていない唇を噛んだ。


一人で帰りたくない。
あの家にいたら、柊介が来るかもしれない。

だけどそんな事、初めて言葉を交わすこの人になんて言えない。



バッグミラーの中からと、すぐ左手頭上からと。
双方からイラついた視線を感じるのに、言葉が出て来ない。身体が、竦んだ。








「…おい、」


業を煮やした彼が覗き込んだその時、涙が溢れた。

情け無い。
何やってるの、ほんとに、私。

彼に何を期待したんだろう。
この悪夢みたいな夜を、変えてくれるとでも思ったのかな。



帰ろう、一人で。
私があのレストランに行かなければ、きっと柊介は家に来る。

心配したような、顔をして。あの甘い声で、私の名前を呼んで。

そして私たちは。
今日、終わるんだ_________











「赤坂まで。」


左肩を押されるような感覚に顔を上げた時。
タクシーはドアを閉めるのと同時に、走り出した。



『え?ええっ?!』

うち、赤坂じゃないけど!


私を押し退けるように乗車してきた八坂蒼甫は、長い脚を窮屈そうに組み直すと。
上質な革の鞄から取り出した携帯を、平然と弄りだす。




『いやいやいや、え、ていうか、赤坂って何?!今どこに向かってるの?!』

「うち。」

『…は?』

「だから、俺んち。」

『な、ん、で…?』

「帰るんだよ。」




彼の悠長な横顔と対比して、やけにスピードを上げて流れる、窓の外の景色に慌てる。




『いや、ちょ、あた、あたしはっ?』

「来る?」

『は?!な、なんで?!』




急展開すぎる、この場面に。乾いた唇がパクパク鳴って、まともな言葉が出てこない。


ふと、携帯の画面から顔を上げた彼は。
一瞬、眉を寄せて何かを思い出そうとしているような表情を見せた後__________


私を振り返って、ただ一言、こう言った。








「拾って欲しそうな、顔してたから?」