唇トラップ


the night _ 3




視界は宙を飛んで、身体は浮いた。
大きく跳ねた、自分の髪の毛先が舞うのが見えた。

掴まれた右手から、0.1秒のスローモーションで引き上げられていく世界の中で。

濃い香りが現れる。脳裏に浮かぶのは、“シャネルのnoir”

揺れる視界が、やっとその相手を捉えた時にはもう。
黒く光る瞳に射抜かれて、息が止まる。


いつの間にか強く引き寄せられた頬には。
火傷しそうなほど、熱い掌。



『な、に・・・っ』

「あいつと同じだけ、悪いことさせてやるよ」


唇に届く親指と、甘く、耳穴を擽る低音。


『何言って_____________』







近い。

そう思った時には、もう。


言葉を紡ぐために開いた唇は。
驚くほど熱い口内に、飲み込まれた。




 



『・・んっ・・・!』



始まった途端、目くるめく濃厚に。
思考は遥か取り上げられて、意識がついていかない。

苦しいのか、怖いのか、今何が起きているのか。理解できないままに、煽られた唇が発熱していく。


僅かに残った理性が、必死で彼の胸を叩く。
無駄な抵抗を試みた左手首は、あっさりと捕らえられて。それを軸に、身体はさらに彼に引き寄せられた。


 

なんで、なんで、なんで______________________

本能的に降りようとする瞼に、なけなしの力を込めて。
彼の“キス顔”を睨みつければ、ゆっくりと惜しむように唇は離れた。

ただ、し。
いつでもまた重ねらる、“離れた”と言えるかどうかも疑わしいほどの距離で。




「・・・なに?」

『こっちの台詞よ!』



何とか顔を背けようと身体を捩れば、顎は大きな親指にグッと固定される。
そんな凶暴な仕草に似つかわしくない、瞳を覗くのは甘い視線。



「そんな怖い顔すんなよ」

『・・・だからっ!』



あんた誰?!いきなり何なの?!
まくし立てようと、息を吸い込んだところで。




 




「忘れさせる。」



思わず、次の言葉を失った。

頬を撫でる、彼の左手の熱が。痛いほど、近い。



「見たものも、その敗北感も。全部忘れさせてやるから。」