昨夜の後味 _ 23
さっきは簡単に見つかった鍵が、バッグの底面に沿ってもちっとも指先に当たらない。
たどり着いた、間違いなく私の部屋の前で。
ガサガサと片手ずつバッグを持ち替えながら、部屋の鍵を探す。
『とりあえず、タクシー呼ぶからさっ…
上がってコーヒーでも飲んで…』
「は?上がらないよ、俺。」
『え?!なんで?』
深夜のマンションの廊下で思わず素で声を出してしまい、慌てて息を飲み込んだ。
『どうして?上がってってよ?』
「いやいや、さすがにそれは無理。ちょっとここで時間潰したら帰るよ。」
すぐに下へ降りないのは、柊介に対しての私の面子を守るため。さり気ないエリーの気回し。
『じゃあ部屋で潰せばいいじゃない。』
「無理だって、藤澤っつったって一応女子なんだから。」
『だから?』
ほんの一瞬。エリーの瞳が色を失くした気がした。
「俺、好きな人いるんだって。」
だけど、困ったように笑うエリーは、もういつも通りで。
『…あ、そっか。エリーはちゃんとしてるね。』
「どうも。笑
適当に帰るから、まじで気にしないでいいよ。」
エリーの茶色い前髪を揺らすのは、そうは言ってもまだ冷える4月の空気。
『玄関だけでもあがらない?タクシー待つ間だけでも…』
「やめとく、須藤に電話もしたいんだ。」
これを言われたら、とうとう引き下がらずを得なくなる。
やっぱり、眞子が廣井さんと帰って行ったこと気にしてたんだ。
『なんて電話するの?』
「家着いたー?とか、かな。」
『ふーん…♡ちょっとドキッとするね。恋心に気付かれないかな?!』
「大丈夫、気付かれないの得意だから。」
微かなズレを感じて。顔を上げたその時、やっと指先が鍵を探り当てた。
『あった…。』
「よかった。今日はもうゆっくり休みな。」
もう一度だけ、誘ってみようかとも思ったけど。
「あんま考えすぎんなよ。」
『うん…。』
「考えすぎて疲れて、何もかも嫌になる。藤澤の悪いクセ。」
『…うるさいなぁ。笑』
エリーが纏う空気は既に他人感を放っていて、声にする前に思いは塵消えた。
「おやすみ。」
閉じていくドアの向こう、微笑んだエリーに。
『おやすみ』と返した私の声は、細くなった隙間からエリーに届いたのか分からないまま、ドアは柔らかい音を立てて閉まった。
くすぐったく、温かく感じたその発音に。
私たちは、6年間の付き合いの中で今日初めてこの言葉を交わしたことに気がついた。
また明日ね、よりも。ずっと心地よくて、安心するサヨナラだった。
メイクだけ落として寝てしまおうかとも思ったけど。
思い切って浴びたシャワーは大正解で、ロクシタンローズの泡と一緒に、溜まった疲れは排水口へ流れていった。
濡れた髪をタオルで挟みながら、オレンジ色のキャンドルだけで灯るリビングに向かう。
時計を見れば、AM3:50。
よかった…あと三時間は眠れる。エリーはもう家に着いたかな。
月明かりを取り込む出窓から、下を見下ろす。歩道に突き出すマンションのエントランスが見える。
さすがにそこに柊介の姿はなくて、ホッとしたのか重たくなったのか。胸の奥で確かに下がった心の理由が、分からなかった。
見上げれば、おもちゃのように傾いた三日月。
濃紺と珊瑚色のはざまでぷかぷかと浮かぶ様は、偽物にも見えるほど可愛らしくて。
昨日ここで、違う人を思ったことを思い出した。
『いたらいいのに。』昨日はそう思って、下を覗いた。
さっきの私は、『いなければいい。』そう思って確かめた。
舌の奥に、ミントの香りが甦る。
長い1日の終わり、昨夜の後味は。
塩辛い涙の味よりも、呼吸さえ奪ったミントだった。