昨夜の後味 _ 21
浮気を指摘された彼氏が、彼女に返した言葉は。
“そっか。”
聞き間違いかと思った。
だけどどうやら、見上げる恋人は間違いなくそう発したらしい。
“そっか。”
…
…
…はい?
柊「続きは部屋で話そう。」
囁いた甘い声と髪に伸びた手を、払い除ける。
昨晩、私の知らない女を愛でた手の平。
『触らないで。』
柊「…十和子、落ち着い、」
『落ち着いて?ぶぁかじゃないの?』
唇が震えて、声が裏返った。
『気持ち悪い、二度と私に触らないで。』
涙も引っ込んだ。
そう思っていたのに。こんな酷い事を口にしたらまた溢れた。
気持ち悪いなんて。思ってもなかったことを、思ってもなかった人に感じた。
『帰って。』
柊「頼むよ、と」
『帰らないと警察を呼ぶっ!!』
エ「藤澤!」
耐えかねたように近寄って来たエリーに。
衝動的に駆け寄って、その左腕を捕獲した。
『行くよエリー!』
エ「はっ?!」
ガッシリ腕に巻きついた私を振り払うこともできず、その前に捕獲されたこの事態を理解できないといった表情でエリーは引きずられる。
信じられない。柊介なんてもう顔も見たくない。
ぼろぼろと情けなく崩れていく自分が悔しい。泣きたくなんてないのに、身体は言うことをきかない。
エリーの腕に顔を埋めながらオートロックの入り口まで急いだ。
幸い、片手だけですぐに見つかった鍵をバッグから取り上げて、鍵穴に差し込む。オートロック解除の番号を押す。
エリーと立ち去ってやる。私にだって男子の影があることを見せつけてやる。
止めてくれなくていい、とにかく早くここを立ち去って___________
「…十和。」
背後から呼ばれた名に、思わず暗唱番号の後、「開錠」ボタンを押す手を止めてしまった。
なんで柊介のこの声は、いつも私を服従させるんだろう。甘い響きの奥に秘められた魔力が、今夜は憎い。
柊介の視線を受け止める背中が緊張する。次の言葉を待って、辺りが静まり返る。
今更謝られるのかな。謝って、エリーと行くなと懇願されるのかな。
そんなことしたって、私は___________
「くだらないことをするな。」
それは、低く静かに。
ある種の苛立ちを、相当に含んで。
夜の空気を切り裂いた。
沸き立つのか、冷えていくのか、もう頭の温度が分からない。
理解できたのは、私の柊介への怒りも、この子供じみた抵抗も。
柊介にとっては、「くだらない」にすぎないこと。
振り返らなくても分かった。柊介が、どんな瞳で私の背中を見ているのかが。
込み上げてくる何かに、下を向いた。
情けなくて悔しくて、消えたいと思った。
停止した思考の中で、視界がぼんやり遠くなっていく。
何やってるんだろう、私。
もうやだ。消えたい…
次の瞬間、よく知る香りが鼻先をかすめた。
視界に入ってきたのは、「開錠」ボタンに触れる長い指先。正しい暗唱番号を受け入れて、赤く点滅していたそれは待っていましたとばかりに反応して。
音を立てて、ガラスの扉がスライドしていく。
行くよ、と。身体が言われた気がした。
しがみ付いていた逞しい腕が、確かに私の身体を引っ張ったから。
フェラガモのエナメルパンプスよりも先に、踏み慣れたエントランスの縁を潜ったのは。
エリーの、茶色い革靴だった。



