昨夜の後味 _ 16
その瞬間。エリーに何が起きたのか分からなかった。
私の二回目の“八坂さん”という発音で、彼の瞳孔は大きく見開いて。顔の上にあった一切の表情は、消え失せた。
あまりに近かったから、その様がまざまざと見えてしまって。私は硬直して、息を飲んだ。
だけど、それは本当に一瞬の出来事で。
すぐに彼は、自分を取り戻した。穏やかで、優しくて、人当たりのいい。いつもの自分を。
エリーは、見慣れた柔らかい顔で、私を見下ろしていた姿勢を正して。後部座席の半分にきちんと収まり直した。
そっか、と笑いながら。
「八坂さんか。海営の?」
『う、うん…知ってる?』
「直接は知らないけど。仕事でやり取りすることはあるよ。」
『そーなんだ…。』
「あれ?藤澤、知り合いだったっけ?」
微かに。
本当に微かに、エリーの声が揺れた気がした。
“だったっけ?”に、妙な力を感じた。
何かを__________探るような、確認するような。
『全然だよ。話した事もないし、仕事が被った事もないし。全部、昨日が初めてだよ。』
「そっか。じゃあ、どうして相手が八坂さんだって分かった?」
『顔は…なんとなく、見た事あったから。』
「有名だもんな。」
『エリーだって有名でしょ?笑』
「キスしたんだ、あの人と。」
『したっていうか、されたというか…。
気付いたらしてたっていうか…?
キッスした♡なんていう、そんないいもんじゃなかったよ?』
照れ隠しで戯けた最後の言葉は、もう聞こえなかったかのようで。エリーは応えずに、窓の縁に肘をついて外を見ていた。
なんだろう、なんか。
急にエリーの心が、ここからいなくなった気がする。
さっきは、いつものエリーに戻ったと思ったのに。
この冷たい空気。また知らない人みたいに、逆戻り。
ついさっき見てしまった、見開いた瞳孔が思い出された。
エリーは今、何を考えてるんだろ…
『エリー?』
振り返った彼の額の上で、前髪が揺れる。
隙間から覗く瞳は、うるうると濡れ光っていた。
『何考えてるの?』
質問をしてるのは、私の方なのに。エリーの方が、私を測るような目をしていて。
瞳の上を揺らぐ水膜は、陽炎のように熱くも見えた。
噤んだ唇が。薄く開いて、躊躇うようにまた閉じる。
私がもう一度『何?』と発しようとした、その時。
「上書きしようかな。」
私を真正面から瞳に閉じ込めた、そのまま。
エリーは低い声で、呟いた。



