唇トラップ



こっちです、と答える前に。

眞子が謎のサイドステップを踏みながら、空のボトルを持つ八坂さんに水を差し出した。



眞「おっ、おはようございますっ!お水なら是非これを御賞味くださいませ!」



なんて事ない顔で受け取って。即座にキャップを回して、真上に煽る。

口元を、溢れた滴が伝う。
生き物みたいに上下する喉仏。




その様子を、あんぐり口を開けて見上げている眞子。
ズレたサングラスの向こう、大きな瞳が涙で潤んでいるのが見えた。



八「何で来た?」


不意に、また視線を投げられる。


『わたし?今日ですか?電車、ですけど。』

八「そう。じゃあ、終わったらそのままここにいろ。」


キュウッ、と。
胃が上に持ち上がる。




八「着替えて迎えに来るから。」




体が後ろに傾いたのは。
突風のような色香ではなく、飛びついてきた眞子のせいだった。


眞「ちょっと!!どういう事!!」

『いや、その、』

眞「聞いてねーぞコラ!!」

『わっ!汗』



首を絞められそうになって、ヨロけている間に。
八坂さんは颯爽とグラウンドに戻って行く。
その向こうに、手を上げるエリーの周りに選手が集合して行くのが見える。
少し小走りになった八坂さんが、そのまま輪に混じった。



『・・・もしかして、エリーってリーダーだったりする?』

眞「ほんっとに何も知らないんだね。エリーも言えばいいのに、自慢できる事なんだから。」



溜め息混じりにカメラを構えて。
きっとエリーに向けて、大きなシャッター音を響かせる。


眞「エリーはね、県選抜の実績があるから。牧さんが参加をオファーした招待選手枠。兼キャプテンで、このチームの先導全てを任されてるんだって。」

『そうなんだ・・・。』



今更驚く気にもなれなくて。
輪の中心に立つエリーを眩しく眺める。

エリーの指示で、選手がグラウンド中に離れて散った。
賢くて隙のないエリーなら。本当に優勝まで連れて行ってくれそう。



そういえば柊介は?
そう思ったら、輪から少し離れたところで。腕を組んだ仁王立ちで、選手たちの輪を見ていた。

顎先を上げて。高い身長で、ますます目線を上げて全体を俯瞰する。
その横顔からは、赤い闘志が透けて見えるような気がした。





「十和子、」

『きゃっ!』


振り向くのと同時に、目の前に投げられた黒いジャージ。

舞い上がる、よく知ったCHANELの香りに。身体が先に、持ち主を連想した。





「持ってて。」




視界を覆う黒を、掻き分けて見上げた先には。
一瞬の余所見も許さない、唯一無二のサディスト。


『私が?』


返事の代わりに、片側だけ口角を上げて。
あっという間にグラウンドへ戻って行く。
その背中を見ながら、彼の残り温を手に立ち竦む。





持っておけ、と言われた限り。
ベンチにかける事も出来ないし、仕方なく両手で抱える。

どうしよう。けど少し、邪魔だな。
私だって、牧さんから指示された仕事があるし。



・・・少しの躊躇いの後。
そっと広げて、肩からかけて見た。

大きく包まれる肩の感触に、薄く舞う彼の香りに。
バックハグされているような感覚が湧いて、思わず目を閉じてしまう。


肩から落ちる腕が長い。
彼との身体の差を思い知らされる。

眼に浮かぶ、あの夜の広い背中。
引っ張られそうになる意識を、必死で繫ぎ止める。












試合開始の笛の音で、慌てて目を開けた。
飛び込んで来たのは、一瞬でボールを蹴り出して先頭に躍り出るエリーの姿。

柊介がドヤ顔で腕を組み直したのが見えた。


八坂さんの上着がこぼれ落ちないように、胸の前で袖を結び合せて。

私はグラウンドの前へ、駆け出した。