唇トラップ



私と八坂さんとの間に起きた事で、彼にとって最も面倒だったであろう事。

それはもう、言うまでもなく。


見知らぬ女と重ねた、あの夜の唇だ。






『・・・廣井さん、もうストップ。また爆発しそうになってきました。』

「ごめんごめん。笑
それと、清宮ともちゃんと腹を割って話せ。
気に入らない事があるなら、キレて暴れてビビらせろ。どうせダメになるなら、全部曝け出してそれからだ。」


キレて、暴れて。

昔だったら、柊介にそんな事するなんて想像も出来なかった。
それが今や、何となくそうしている自分も想像出来るし。

ビビりながらも、何とか宥めて抱き寄せようとする。
焦った顔の柊介も想像出来てしまう。





『・・・そうだ、廣井さんも何か話したい事があったんじゃないですか?トップシークレットとか言ってたのって何?』

「いや、俺の事はもういい。自分の事だけで手いっぱいになってるお前を見て安心したよ。」


どういうこと?

聞き返そうとした所で、「ここでいいですか」と。
運転手さんの声に、違和感は打ち止められた。






「来週末のこと、聞いてる?」


今にも閉まりゆくドアの向こうで、廣井さんが思い出したように顔を上げた。


『来週末?誰から?』

「そうか、聞いてないならいいよ。」

『何ですか?』

「いや、聞かない方がいいと思うけど。」

『気になる。教えてくださいよ。』

「・・・駒沢で、例のサッカー大会の公式練習試合があ、」

『お疲れ様でした!』



即、聞かなかった事にして。
思いっきり頭を下げてお辞儀をすれば、廣井さんは笑った。













小さく遠ざかっていくタクシーを、ぼんやりと見送りながら。
廣井さんの話を思い出していた。


“はい、ようやく”


やっぱり分からない。
何処から起算して、“ようやく”だったの?


初めて会ったのはエレベーターの中。
泣いていたら声をかけられて。振り向いたらキスをされた。

あのときかけられた言葉は__________何だったっけ。名前は、呼ばれてないよね。





溜息をついて、そのまま大きく伸びをした。

明日も仕事だし、早くシャワーを浴びて寝なきゃ。エントランスへ続く階段に足を踏み出した。

オートロックの前、FURLAのバッグからキーを取り出して。いつものように差し込んで____________________




急に、あの夜の声が耳奥へ蘇った。


“見たの?”


そうだ、八坂さんはあの時そう言ったんだ。




忘れてた。あの夜感じた、違和感。
柊介の浮気。どうして知ってるんだろうってひどく不思議だったのに。
その後のキスの熱さに、戸惑いごと取り上げられていた。



ていうことは、八坂さんが指す“ようやく”の起点は柊介の浮気?
そこから数えて、“ようやく”ってこと?

だけど、あの“見たの?”を言うには私が柊介と付き合ってることを知っていた前提があったはず。
どうして知ってたの?柊介は勿論、私だって殆ど口外しなかったのに。





考えれば考えるほど分からない。
何者なの?八坂さんって。

一つ近づいたと思えば、また見失う。どんどん深みに誘われて、後戻りできなくなりそうな。



グッ、と。
力を込めて、差し込んだキーを回した。






八坂さんを見失ったって、自分の心までは離さない。



もう一つも

あの人のトラップには嵌らない。